大船から金沢に独り引越してきたのは8月の末日.9月から金沢での新しい仕事が始まったから.大船でも北鎌倉から深沢にかけての古い土地を随分歩いて面 白いことを随分感じたが,金沢にも似たような感じを持ったので,随分,走ったり,歩いた.金沢を形にしているのは川と河岸段丘,それらをつなぐ坂.点と点 を線でつなぎ,線と線が交わる点を増やすような日々を過ごした.坂の”うえ”と”した”,川の”むこう”と”こちら”,”ひる”と”よる”,ぼんやりと区 切られた境界を,随分くぐり抜け続けたような気がする.坂を通り抜けると,はっきりとした空気の変化を感じることが多い.勿論,物理的な湿度や温度の変化 があるのだろうが,光や匂いの微かな移ろいが気持ちのなかにはっきりとした区切りを与えているように思う.
多くの坂を通り過ぎたが長良坂が一番好きだ.はじめて坂の上に立った朝,犀川がかすかに煙っている様子がみえた.光の散乱が鱗のようだった.坂にはお香が満ち,もう一つの世界へくぐる感覚になり,気持ちが高ぶった.坂の中程にお地蔵様がおられた.六道を彷徨う衆を救うお地蔵様.かすかにお線香の においがした.お堂にはご詠歌が貼ってあって,蝋燭,お線香が備えてあった.朝早くには,お香が焚かれるのだろう.そっと手をあわせた.ここは,今もなにかが生きる坂,あるいは生かされている坂だと思った.
そのとき夕餉のころはどうなんだろうかと,想うと居ても立ってもいられなかった. その晩,坂の上はまだ明るかったが,坂は少しくらく,その先の下菊橋のあたりが明るくみえる.坂のうえには旧家が並び,土蔵の脇に月がぼんやり見えてい た.長良坂を静かな気持ちで通りすぎた.下から見上げると,自転車を押すひとが小さく影になっていた.
そんなふうに長良坂には何度となく出かけている.光が拡がる朝にあっても,翳りも拡がるような気がするのは何故だろうかと思う. 坂への入り口あたりは,ある種の違った時間の流れが,この世に顔を少し出しているのだろうと思う.金沢で歩きまわる(走りまわる)楽しみは,坂をすぎると・路地をまがると・振り返ると,そんな細かな裂け目を感じることが少なからずあって,変わらぬ日常もそこにあって.