K’s Jazz Days

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ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

中沢新一:アースダイバー(2005) 北河内の高台を歩いて思い出した胡散臭い面白本


元旦の小春日和、北河内の高台のうえを初詣に行こうと歩いてみた。淀川南岸の河岸段丘のような土地。殆ど知らない土地なので歩いているときの寂寥感が程良く、新年の浮かれた気持ちなんて関係なく陽溜りの中を歩く。案外標高があって、大阪の平野が眼下に遠くまで見渡すことができる。霞んでいたけど、USJの先に広がる大阪湾も見えるんじゃないかな。そんな台地のうえには密教の大寺院があって、なかなか派手な新年行事を繰り広げているのだけど、気分があわない。ボクは静かな小さな神社をみつけて、そっと手を合わせた。

小学校の頃に習ったように、高台のうえに縄文時代の人々は村落をつくったのだろう。それに縄文海進の時代には今の大阪平野は河内まで海の下。大阪が平野の体になったのは随分後のことで、しかも低湿地の芦原であったようだ。そんな地帯を見下ろすような高台には、新町名の合間に由来がとても古そうな名前の神社がある。数千年の前、眼下の海を見下ろす丘につくられたモリの裔。そんなことをつらつら考えるのは、淀川を挟んだこの地域には、とても古い地名が沢山あり、語感的に必ずしも大和朝廷の時代だけでなく、もっともっと土着的な響きもあるから。

それぞれの神社の起源というのは、縁起書のようなまとまりかたをしているのだけど、それは延喜式のころに整備された書式にのっとったもの。本当のところは、日本(というより倭人)の起源ともども霞のような時間の彼方にあって、よくわかっていない。沖縄の御嶽(うたき)のような聖域、たぶんに縄文時代に起源をもつもの、から神社へと緩やかに変遷していったのだろう。だから渡来系の天津神、土着系(多分に縄文系かも)の国津神のようなもつれ方をしているのかな、と思う。

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そんな散歩の徒然に想いだした本が中沢新一のアースダイバー。中沢新一著作の胡散臭さはなかなかのもので、文芸作品と思って読むと、ボクにはとても面白い。誰だったか、好意を込めて「嘘つき新ちゃん」と書いていたけど、ボクもそんな感じで読んでいる。ならばアースダイバーでの海進地図が多少違っていても、地形にまでフロイト的な解釈を加えて、六本木の横の谷間にエロティックな妄想を加えたり、ということが面白・可笑しく読むことができる。

そんな気持ちで、彼の本を読みだしてもう1/4世紀。はじめて読んだチベットモーツァルトにしても、ヒトの意識の多重的な深度を書いている点を諒解事項とすれば、あとはSF的な面白本。何時の頃か、著名大学のまじめな理系人タチが「あの新興宗教」にはまり悲惨な事件を引き起こした時代があった。その入口に中沢新一の読書体験が案外あった、という話を聴いて、本の読み方を間違えているなあ、と思った。物理本のような読み方をしちゃいけないよね。人の意識の奥底に降り立てば、飛ぶような体験を意識として惹起することはできるけど、物理運動ではないのだから。

このアースダイバーの地形解釈にも随分間違いがあるそうなのだけど、そんなことはどうでも良くて、フィクションとしての秀逸さを愉しめば良いのだ。