昭和43年出版の求龍堂による復刻本を入手。装丁・版画は何と川上澄生。やはり詩や詩に準じた文章は旧字体、旧仮名遣いではじめて作者が描きたい文学空間がわかるような気がする。なんといっても,漢字は象形文字だからね。オヨヨ書林せせらぎ通り店で購入。
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気がつくと傍にあるような、それも時々。記憶の底や、あるいは開いた本のなかから、忘れた頃に忘れていないことを知らしめるように表れる。そんな不思議な散文詩がある。萩原朔太郎の猫町。昭和10年の出版。そんな晩年といっても良い時期の作品。大正期の代表作「青猫」や「月に吠える」のような,退廃的な香がする、それでいて透明度の高い作風から変わって、骨太の国語で組み立てられたような感じ。日本全体が維新期からの欧米文明からの圧迫を跳ね除け、弾け飛ぶまで意識を昂揚させていた時期なのだろうな,と思う。横道にそれるけど、日本浪曼派の保田與重郎とか読んでみたいな,という気もあるこの頃。それはさておき,
ボクがこの「猫町」の存在を知ったのは高校生のころかな。文庫本で買った萩原朔太郎詩集の解説文のところに、年譜とともに床屋のなかから猫がのぞく不思議な装丁が眼を引いた。読んでみたいと思ったけれども、詩集にもはいっていないので,興味だけ後に残っただけだった。
はじめて読んだのが大学に入ってから。大学の図書館で筑摩書房の萩原朔太郎全集を借りて、そのなかの散文詩を集めた巻で触れることができた:
「旅への誘いが、次第に私の空想(ロマン)から消えて行った。昔はただそれの表象、汽車や、汽船や、見知らぬ他国の町々やを、イメーヂするだけでも心が躍つた。しかるに過去の経験は、旅が単なる「同一空間における同一事物の移動」にすぎないことを教へてくれた。何処へ行つて見ても、同じやうな人間ばかり住んで居り、同じやうな村や町やで、同じような単調な生活を繰り返している。」
ではじまる。日常感覚からのトリップということについての記述で、ドラッグまで使ってみる話まで飛び出る。そのうちに散歩で路を間違えたときのトリップ感に気がついた。そして北陸の温泉場で路を失い、人工的に空気が作られたような街に迷い込み、猫に囲まれる....筋は他愛もないのだけど。ただ文章の切れっ端のひとつ・ひとつが実体のない,ぼんやりとした心象風景そのもので、とても虚ろ。その虚ろな詩的空間の明度は低く、読んだ後から後から、随分と昔に読んだ本の光景となり、セピア色のような記憶になっていく。そしてボクのモノゴトの感じ方の基準(reference)になっている。
まあ1回読んで満足したのだけど、何処かボクの散歩僻の引き金になったようで、大学を出てから鎌倉の街でトリップ感を求めて随分と歩いた。そんな感覚は得られなかったけどね。その頃,ふっと傍らに現れたのは、かの漫画家:つげ義春のエッセイ。猫町がモチーフ。甲州路の犬目宿(猫ならぬ犬)の夕刻、同じようなトリップ感が得られたと。早速オートバイで笹子峠の近所まで出かけたのだけど、大火で焼けてしまって何もなかった。もう30年近く前のはなし。
その後、大学の図書館で読んだ筑摩書房の萩原朔太郎全集のうち、散文詩の巻をバラで手に入れて今にいたっている。
そんなdecade単位で記憶に遡上してくる猫町なのだけど、はじめて復刻本をみかけた。開店したばかりのオヨヨ書林。とても味わいがあって欲しくなってしまった。ボクにとっては高価で数日は考えたのだけど、結局、入手。
装丁・版画は何と川上澄生。やはり詩や詩に準じた文章は旧字体、旧仮名遣いではじめて作者が描きたい文学空間がわかるような気がする。なんといっても,漢字は象形文字だからね。暫し手にとって、眺めているだけで酔うような気分になれるノン・アルコールの読書なのだ。そして文字をなぞるだけで、知らないトコロへ連れだしてくれるから。
追記:買ってから気がついたのだけど,岩波文庫で簡単に手に入るのね...知らなかった。
追記2:wikiによると、散文詩のはじまりは仏のベルトランの『夜のガスパール』だそうで。クラシックの聴き始めのひとつが、この『夜のガスパール』に触発されて作曲されたラヴェルの同曲なので驚いた。