K’s Jazz Days

K’s Jazz Days

ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

Keith Jarrett: Rio (2011) 例年になく新譜を手にした年だったのだけど

Keith Jarrett: Rio (2011, ECM)

 Keith Jarrett pino solo

 今年は例年になく新譜を手にした年だったのだけど、意気込みと裏腹に、そんなに沢山の文章を書くことができなかった。自分のなかで受け止めた音に焦点、のようなものが定まるまで時間がかかるのだ。分析的に聴くことができる訳ではないし、感覚の海の中で、たとえ小枝のような掴まりどころがないと、ただただ漂流、いや浮遊するだけで、なかなか文章にできない。そんなことで、旧譜ばっかりのアップとなっている。なんとも、やれやれと思いながら、今さらながらRioの明るいジャケットを眺めている。まあボクの場合、音楽のことを書いているようで、書いていない。音楽という探針が感情に当たった時に、意識下に生じる「何か」のキネマティクスを顕在化させるようなこと。音楽に対する反応をスケッチすることで、自分のコトを書いているに過ぎない。

 Rioを聴いてすぐに感じたことは、かつてのFacing youのような世界に戻ってきたような感覚。1972年録音(だっけ?)のFacing youは、若々しい躍動と青い草の匂いが薫るような音。1960年代末に彼が吹き込んだディランの「My back page」の世界をもっと鮮烈にしたような音。それが掌品として編まれたような素敵なアルバムだったのだ。その後の「かの」ソロ・コンサートから大作化したり、現代曲風を弾いたり、あるいはスタンダード曲を弾いたりしていたのだけど、案外とFacing youの音世界からは遠ざかっていたように感じる。

 今回、Rioを聴くと1曲目が現代曲だったので、あのパターンね、って思った。されど、その後の曲を聴き続けて驚いた。Facing you的な音世界の中で円熟したキースの音を聴くことができたのだ。それがなぜ南米リオ・デジャネイロという土地で収録されたのかは分からない。いい意味でリラックスした音が紡がれていく感じが、とても美しいし、また改めて宙に消えていく音の儚さに気づかせてくれるような掌品が続いていく。聴き手に押し付けるような緊張感を与えていなくて(それが時としてキースの欠点だと思う)、自ら音の緊張の中に身を置きたくなるような感じ。

 30年以上前のことだけど、麻疹のようにキース・ジャレットに夢中になり、2年程で飽いてしまった。その後、そんなに熱心になっていなかった。カーネーギーのアンコールを聴いてから、再び気になる存在になった。金沢に移り住んでから、昔日のように音楽をゆったりと聴くことができるようになり、ソロの近作でゆっくりと距離が近づいていったような気がする。このRioを聴いて、なんだか再び熱心に聴くようになった自分をみつけて,懐かしいような、照れくさいような気持ちになっている。だからすぐには書けなかったのだろうな。

 ほら、やっぱり音楽の事より、自分のことばっかり書いている....

Rio IX:こんな曲を聴くとうれしくなってしまう.