K’s Jazz Days

K’s Jazz Days

ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

アレクサンドル・メルニコフ ピアノ・リサイタル:ショスタコーヴィチ/24の前奏曲とフーガ


  仕事の都合がついたので、築地の朝日新聞社横にある浜離宮朝日ホールでのコンサートへ出かけることができた。

 ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ」は好きなクラシック曲の一つで、音の景色がゆっくりと遷移しながら淡い色彩を流していくことを楽しむのが好きだ。最初にリヒテルの演奏を聴いて惹き込まれた。そのあと、随分いろいろな演奏を聴いたように思う。そのなかで、最近出されたメルニコフのアルバムは、録音の良さもあり、抑制的なタッチと透明感が強い音色が心地良い一枚。随分と評判になっていた。静謐を音にしたような、寡黙な印象と粟立つ音が不思議な調和を醸しだしている。

 ボクはマメでないことが災いして、あまり演奏会には出かけていない。どこで何が行われているか、気がついていないのだ。メルニコフの演奏会は、昨秋、ベロフを聴いたときに配られたパンフレットで気がついた。出かけようか迷っていたのだけど、丁度、忙中閑あり、のタイミング。

 比較的小さなホールであのような素晴らしいピアノを聴くことができてよかった。はじめての体験だけど、ホールの空気と奏者が一体と化して、上の方から音が降り注ぐような、この世ではないトコロから漏れてくるような音。CDでは抑制的なタッチのように聴こえていたのだけど、強靱で破壊的・暴力的な瞬間もあり、驚いてしまった。モノトーンに近い、水墨画のような色彩感で、だから表されるような高さや深み。

 二回の休憩(計30分)を挟んだ3時間の長丁場の演奏会。曲によって出来・不出来があったように思えた(聴きはじめてから浅いので、本当にそうなのかは分からないが)。だけど一つとして退屈な場面はなかった。高みに登り詰める瞬間、のような極まった音を何回も聴くことができたから。その瞬間には、音は奏者を離れてただ高みにあるオトととして聽者に降り注ぐ。そのときボクは呆然としていて、もはやオトととしての輪郭を認知できていないことも何度かあった。小学生の頃雪国に住んでいた。窓の外の牡丹雪を眺めているうちに、雪が上から落ちてくるのではなく、自分が天に向かって上がっていくように思え、呆けてしまった。そのときのことが突然想い出され、オトが降り注ぐのではなく、ボクが上がっていっているような感覚に浸ってしまった。

 20世紀のソヴィエトで生まれた曲をロシアの奏者が弾く。そこで感じた音の光景は人間が暮らすこの世の光景ではないように感じた。とても宗教的なものではなかろうか。崇高な存在から注ぐ光や、光がある故の翳りを、さまざまな音の形であらわしたような世界だった。

 トシの割に随分遅れて来た聽者で、ホロヴィッツミケランジェリチェルカスキーをナマで聴くことができなくて残念なのだけど、その時代その時代で聴くべき奏者はいるのだろうな、と改めて感じた次第。

 それにしても感動とか悦びとか、そのような感情めいたものは動かなかった。もっと異質なものを自分のなかに感じた不思議な体験だった。