K’s Jazz Days

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ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

岡村秀典:夏王朝 中国文明の原像(講談社学術文庫、2007年増補)彼の国の在り方


 最近の彼の国の成長・強大化と我が国の衰勢が顕在化するなか、彼の国に対する複雑な感情が満ちあふれているように思える。某新聞社系のサイトは特に酷いように思える。我が国の在り方を語るときに、彼の国に対する侮蔑から萎縮まで、彼の国を基準軸として我が国を相対化するような論調が右から左まで幅広く見られるのが残念だ。超然と我々の在り方を考え続けていかねばならいない、と思う。隣人との付き合いには一定の距離が必要で、嫌悪や親密の情は必要ない。適度な礼節と適度な警戒が必要なだけだ。我々のことは、隣人を念頭に置きながらも、まず我々自身が我々の在り方を考えればよい。嫌中あるいは親中という用語が、実は我々の自信喪失の裏側に貼り付いているから、これらの用語は気持ち悪い。自虐史観自慢史観なんて論争にもならない論争にも同じような気持ちわるさ、がある。

 かつて亡き網野善彦が日本という国号に対し、彼の国からみて東方すなわち日出処が由来であり、右の人がそんな国号を尊重するのは可笑しいと皮肉った。筋金入りの左の人らしい言説であるが、我々が自信喪失し、彼の国に対しオタオタして嫌悪の情を剥き出しにしていると、黄泉の国の網野に笑われるように思えるのだ。(ワカルカナ?)

 我が国の在りようを考えると、白村江の戦いを契機に、天武朝の頃にヤマトから日本へと国号が変わり、元首の名称が天皇となった事実がある。大陸からの遠心力が我が国のアイデンティティを形造っていることは、紛れもない事実であろう。だから、このグローバルという名の暴力的な隔壁破壊に戸惑っているのが、21世紀の我が国の現状じゃないかな。だから嫌悪や親密の情を示すまえに、彼の国と彼の国の民を知らねばならないと思うこの頃なのだ。あの大戦の頃に、敵国であった米国にドナルド・キーンが学んだように、我々も感情を発露する前にまず学ぶ必要があると思っている。

 前置きが長くなった。とても面白い本を読んだ。

 この本は殷(彼の国では商と呼ばれる)の前に存在したという「夏」王朝に関する本。100年程前、西洋流の文献批判の思潮なか、司馬遷史記に記載された周より前の王朝の存在は一旦否定された。その後、殷墟の発見や甲骨文字の解読により、殷(商)の実在は証明された。しかしながら、殷中期以前は無文字文化である。だから遺構の調査、考古学の側面から殷以前の王朝の存在を追い求めている。

 結論から云うと、シュリーマントロイアの発掘と同じ話。

・殷前期の遺構、その近隣にあった「夏」最後の王宮と同定可能な遺構を発掘し、1000年後の司馬遷が記録したような戦乱の痕跡があり、まさに夏から殷への王朝交替があったと推定できる。

・その幻の王朝が「夏」であるかどうかは文字がない以上分からない。後年、「夏」と伝承された王朝があったことは間違いない。「夏」と同定される遺跡には、1000人規模の臣下の前で執り行われる「王朝の儀礼」に相応しい建造物の後、また「王朝の儀礼」に用いられる金属器が出土し、まさに王朝と呼ばれる権力の存在を示している。

それだけの話しなのだけど、考古学上の発見を科学的な手法で年代同定し、史記に記載された内容との整合性を確認し続けて、歴史を更新し続ける彼の国の努力は凄まじい。「夏」の国は霧の向こうな微かな物語なのだけど、それを追い求める執念こそ21世紀の今を生きる彼らの力強い物語なのだ。

 戦前の史観に対する反動からか、我が国の前史に対する議論は深まっていないなあ、と改めて思った(アレアレ、ボクも彼の国と比べちゃった)。記紀の記述は明らかに書かれた当時の歴史認識や政治認識の産物であろう。しかしながら、その伝承に含まれる歴史事実の抽出と考古学の成果を厳格に積み上げていくような議論は必要ではなかろうか。その前提として、宮内庁の墳墓に対する対応改善も大きな課題なのだろうけど。その結果として、亡き大野晋が云うような渡来民と現地民とのクレオール的交易圏から国や言葉が生まれたことが白日のもとに曝されようとね。そして、その我らが出自を噛みしめて、改めて彼の国との正しい距離を同定するために。