先週の土曜日にオヨヨ書林で求めた古書。澁澤龍彦の名前って、子供の頃の裁判沙汰もあって、なんとなくエロのイメエジがある。高丘親王航海記は随分前に読んだのだけど、その他はつい最近。トシをとってきて実感してきたことは、死と生の間には相応の距離感はなくて、同じ事象の裏と表を見ているような感覚があること。そしてその表裏の薄っぺらな距離感のなかにエロスのような感性が潜んでいること。自己愛や自尊心のようなものから沸き上がり、他者との関わりの中で発露していくからね。薄っぺらな生への愛、から生まれるような感覚といおうか。
そんなモヤモヤとした感覚をスッと風通しよくしてくれるような効能、を澁澤龍彦の微エロな小説に感じてしまう。部屋の済に溜まっていて、眼の行き届かない埃(のような自分の感情の奥)に光を当てたような。死と生の垣根が払われた後を鳥瞰するような、伸びやかな感覚。
高丘親王航海記はその舞台から薫り立つエキゾティシズムに酔ってしまった。かなり外向的なヴェクターを持つ読書だったような気がする。この「眠り姫」は掌品を集めたもので、澁澤龍彦が語り部となって物理的な壁(時間や距離)を抜けながら小旅行するような味わい。とても内向きなヴェクターを感じる。個々の奇譚の味わいよりむしろ、澁澤龍彦に語りかけられ続けた時間が愛おしい気分だった。そう、彼の世界では生者も死者も、聖者も魑魅魍魎も、一片の愛しい存在として語られている。生者の世界がとても狭隘なものに思えてしまう。
結末がない奇譚が多く、唐突な感じを受けながら読んでいたのだけど、奇譚の一つ一つは素材に過ぎなく、ただ人生の終末期を迎えた澁澤龍彦の語りを読む本だと思った。
すっかり冷え込んだ週末、旧いLPレコードを聴きながら読み続けた。押入れから引っ張り出したオイル暖房機の緩い暖気を感じながら、明け方まで居眠りをしていた。そんなときに瞼に写った淡い明け方の光景は寝ぼけていたのか、浅い夢のなかか。そんな曖昧な感覚のまま、いつか彼方へ旅立ちたいと思う。
本を読み終えそうになったとき、奥付をめくると黄色くなった新聞記事が貼り付けてあった。池内紀の追悼記事。昭和62年8月8日。病気の後、彼は「やがて夢をみるように死んでゆくのでしょう」と云っていた。そして高丘親王が迎える彼方に消えた。池内にはお土産のいかがわしい仏本が残った。 その頃ボクは、彼がいた北鎌倉から僅か2km向こう、されど隔絶した処で地を這うように働いていたことを思い出した。それも随分と昔のこと。古本買いの余禄。暫し、虚空に消えていった四分の一世紀、に想いがいった。