K’s Jazz Days

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ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

Heard Museum@Phoenix インディアン芸術の博物館で考えたこと


 出張先でのイベントの役員任期も終わり、時間に余裕ができ嬉しい。空き時間にインディアンの博物館へ出掛けた。アリゾナ、というとインディアン民の土地で関心はあったのだけど、4、5回目の訪問でようやく。(インディアン、という表記は現地の通り。部族名の総称として、彼ら自身の呼び名、だそうだ。)

 この地の支配者はスペイン、(独立により)メキシコ、(米墨戦争により)アメリカと変遷する。スペイン人の支配により、この地のインディアン人口は1/3になったと淡々と記載されている。米国による圧迫も酷いものであったと思うが。展示品全体を通して自然崇拝、アニミズムの世界観を感じることができ、アニミズム由来の自然観・世界観を根底に持つ我々にも親しみを感じるものだった、と思う。

1000年くらい前の土器。あとは近年のもの。

  館内、館外には、米軍との闘争や圧迫に関する記述はなく、米軍のインディアン退役軍人の顕彰碑や、軍歴に関する記述(フィリピンで日本軍の捕虜になったこと)などが記載され、米国市民の一角を為すことを丁寧に示していた。アメリカが民族国家でなく、元来は宗教国家であり、現在でも普遍的である(と彼らが信じている)民主主義というイデオロギー国家であることを、改めて認識した。短い歴史の中で、その抱擁する範囲を清教徒から白人一般、黒人、様々な移民に広げる過程で変態していったイデオロギーの紐帯が民主主義であって、その紐帯を確認する血の行事が軍事、戦争の中で改めて国民統合を為していく彼の国の在り方、を感じた。

  何故、今の時代に硝煙の匂いを感じはじめるのか。ひとつには米国覇権の減退と中国・ロシアの覇権追求によるパワーバランスの構造変化に伴う摩擦が外的にあるのだけど、所得格差による国民の分断が強まったことによる紐帯を確認する手段としての戦争、が内的に求められる時代、になりつつあるように思える。

 我らが日本も先の大戦がまさにそのような側面を持っており、荒っぽい資本主義で分断された国民を統制経済で平坦化し、兵役の不平等(学徒と云う有産階級子弟の実質免除)を学徒出陣で解消するという、国民統合のプロセスであった、と云える。野口悠紀夫の1940年体制革新官僚による国家社会主義)は経済面のみならず国民思想としても戦後保持してたと思う。その崩壊過程に我々が面していて、その恐れから新たな戦争(あるいは戦争のようなもの)が国民のなかで内的に求められている、ように思えてならない。先の大戦の推進要素として、加藤陽子「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」 にみるように、普通選挙法の後の大衆社会のなかでの民意、を見逃してはいけない。最近のヒダリ・ミギの荒っぽい言論にそんなことを思う。オソロシイ。

 そんなことを、美術館の中庭でぼんやり考えていた。