K’s Jazz Days

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ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

石川九楊:日本語とはどういう言語か(講談社学術文庫) 日本ということの古に思う

 

 普段、日本語を使って仕事をしている。技術者ではあるけど、書くことはとても重要で、考えていることを論理とし、場合によっては学術誌や本の形で出版する。技術者ではあるのだけど、書き手、であるという意識も幾ばくかはある。その中で気がついたことは、日本語という言葉がゆっくりと変容する事実と、その在り方、のようなこと。私は日本語の書き手ではあるのだけど、仕事で書く文章の言語構造としては、英語を念頭に置いて書いている、という事実。そんなに難しいことを云っている、のではなく、伝統的な日本語、つまり主語が曖昧であり、如何様にも読めるようで、実はそうでない、ような曖昧であるようでそうでない日本語では決して書いていない、ということ。主語、述語(行為あるいはありようを表す語)、そして目的語などを強固に意識し、所謂SVOやSVCという言語構造に対応したSOVやSCVという言語構造に論理を帰着させ、そして文章にしている、ということ。曖昧さを排すること、に全力を挙げていると云っても良い。理系の文章、とはそんなものだ。

 明らかに、先の大戦前の小説に見るような文章とは全く違っていて、主語を配するという、英語の強い影響下にある非伝統的な日本語だと、ある時に気がついた。もう少し正確に言うと、吉田健一「金沢」の文章を眺めていて、ふっとそう思った。だから何が云いたい、かと云うと、言葉も生き物であり、その姿は時勢により大きく変化するということ。現代日本語の完成が明治年間であり、古代からの日本語と連続しつつも、変態を重ねているという事実。戦後の横書き文化は見かけの横書きだけでなく、その文体も西洋言語の強い影響のもとにあり、その範囲において、強い論理化指向を持っているとうこと。その中で、言語生活を営んでいる、強い自覚がある。

 つまり、戦後のアメリカの影響は見かけ上の法制や政治体制、あるいは思想的なものへの影響だけでなく、体躯の急激な変化(身長が伸びた)あるいは言語の構造・論理にも僭主のような影響を与えている、ように思えてならない。そのように、体躯や言葉は移ろうもの、だろう。

 このように長く前置きしたのは、今そして過去の「日本」というものを考えるなかで、それが何なのか考えるヒントの一つと感じるから。つまり確固たる日本やヤマトのようなものがあった訳でなく、時々の大陸との作用・反作用(大方は漢民族、最近はアングロサクソン)のなかで、変容を重ねながら「日本」というものができあがり、そして変容を続けている、その単純な事実を経験しているんだ、って感覚。

 最近読んだDNA本や考古学本では、日本人を構成する「民族的な枝」は多様であり流入した人々が共存できた豊潤な土地であったこと、縄文から弥生への民族的な連続性は強いこと。大陸からの移民は限定的であったこと、が云われている。体躯の変動は食生活の変化の側面が大きく、民族的な変遷が主体でないことは、この100年の我々も体験したことである。

 一方で網野義彦が看破した(右派への悪態だけど)ように、日本という国名自体、大陸からの視点(大陸からの日の本)であり、大陸からの強い遠心力のもとにある国である、という事実。光と影のように日本という国制の裏に大陸が張り付いている、のも事実であろう。日本語の起源に関する数多くの議論のなかで、岡田英弘が書いていたクレオール言語としての日本語の話は最も腑に落ちるものであり、大陸からの少数の移住民とともにもたらされた漢語(呉音)をもとに、クレオール的に助詞でつないで言語とする、カリブのクレオールや太平洋のピジンのような言語である、そのような論に深く納得させるものがある。比較言語学のような話でタミール語との類似性を云われるより、である。日本という国制だけでなく、民族としてidentifyさせる根っ子の言語からして。だからこそ、強い遠心力のもとで自立を目指した言語、民族と言い換えても良い、のだろう。

 本題に入るのだけど、この本はそのような混沌とした議論を明快に整理している、とても分かりやすい本。膠着語孤立語屈折語といった西洋の言語学に立脚した言語分類の不毛さを説き、文字が果たした言語成立のなかでの役割を強く説いている。つまり中国語は文字の言語であり、数多の民族語を文字で統一する過程で孤立語となった文字の言葉である。だから中国のなかでも孤立語は居心地が悪い場合もあり、方言的には助詞がつくこと。漢字でフタができなかった言葉が周辺に残った、朝鮮語、日本語、越南語など。そして、漢字が入る前に本居宣長が夢想した「純粋やまと」のようなものはなく、倭語のようなものはあったにしろ、強固な言語にはなっていない、無文字だから。統制のない方言の海。漢語概念と対になる「倭語」を抽出、選定するなかで日本語が出来上がった。音読み・訓読みのような二重言語が漢字を媒介して成立した、そのような説明。クレオール議論との整合性も良いし、日本語のルーツとしても座りが良い、と思った。そして、日本語の特異性として、文字が三つあること(男手の漢字、女手のひらがな、表音文字のカタカナ)、そして、それによる表現の多様性と柔軟性、そのようなこと。

 また弥生時代(考古学的な意味、というより文化的な意味)での成立の契機が、始皇帝の秦であったこと。その意味は世俗的な、脱宗教的な文字の成立。篆字から漢字が広がり、周辺地域の覚醒をはじめた、ということ。きっと徐福のような渡来民が漢字をもってきて、その交わりの中から日本語が長い時間かけて生まれてきた、そのようなことを思い浮かべさせるような、楽しい読書となった。

 普通の庶民は書き言葉に縁ががなく、方言の海、まさに統制のない倭語のなかにあった。しかし文字を持たぬ故にその言葉は移ろい、消えていく。書き言葉を獲得した言葉が、政治的な正当性を確保し、その連続性のもとに政体として存続を続ける。縄文人の末裔といわれるアイヌ人の言葉が、日本語とのつながりが見えない(アイヌ語の宗教的用語の日本語との共通性については、擦文期の倭人アイヌ人の交流が考古学的な視点から提唱されていた)理由も、日本語の成立の課程を考えると、十分納得できる。そしてアイヌ語だけでなく、各地の方言も文字を持たぬ故に消えていったのだろう。

 ここ1年くらいで読んでいた本、DNA関係、考古学、歴史、言語、そのようなものが、薄らと包絡線を描き出したので、メモのように書いてみた。