菊地雅章: Susto (Columbia, 1980)
A1. Circle/Line
A2. City Snow
B1. Gumbo
B2. New Native
Masabumi Kikuchi(菊地雅章)(key). Terumasa Hino(日野皓正), Steve Grossman, Dave Liebman(sax,fl), Sam Morisson(wind driver), Richie Morales, Yahya Sediq(ds),Hassan Jenkins(b), James Mason, Marlon Graves, Barry Finnerty,Butch Campbell, Billy Patterson(g), Alyrio Lima, Aiyb Dieng, Airto Moreira(perc), Ed Walsh(synthesizer programming)
Recorded at Sound Ideas Studios, New York City in November, 1980
Recorded and mixed at CBS/Sony Roppongi Studios, Tokyo in December, 1980 and January, 1981
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気まぐれな好きなアルバムの整理シリーズ。
1975年のマイルス・ディヴィスのAgharta、1980年のギル・エヴァンスのPublic Theater、そして1981年のこのアルバムは地下水脈のように繋がっている。マイルスのアヴァンギャルドなファンク、ギルの脱力的なビート感、そしてこのアルバムでのミニマル的な軽妙なファンク。ギルを軸にしたマイルス引退期における「アノ音」の最後の軌跡であり、確かに前進したような感覚を聴き手に与える。ライヒの仕組みとマイルス/ギルの音を止揚したような高み、にある。
だからこそ、マイルスが6年くらい引っ込んだことと同じように、菊地雅章もAll Night, All Right, Off White Boogie Bandまでの8年近く引っ込んだ、のではなかろうか。しかし、このアルバムの異様な高み・緊張感まではいかなかった訳で、その後のアコウスティックな音響の追求への変容したことも、そんなことかな、と思ったりもしている。
[2016-01-11記事]
今再び聴いている。素晴らしい。ファンク的な形をとりながら、彼のミニマル音楽。ミニマル的な手法、果てしない繰り返しのなかで音の残像と音との差分を意識の中で浮かび上がらせる手法、を意識下での和音の炙り出し、に使うのでなく、リズムパターンそのものに使っている。多くの管楽器もリズムの下僕であり、ひとつひとつの音に意味を持たせず、総体としてファンク的なリズムへ指向している。
このアルバムの数年前にライヒのECMへのデビュー盤があり、ガムラン的なリズムを装いつつ、変曲点でクッキリと美しい和音を想起させていたことと、似ているようでvectorがオモシロク変容している。
音の洪水のようで、溢れ出すでもなく、存外に単純な間隙が多い印象の音楽。これがボクの菊地雅章体験の原点であり、実は最近までコレが全てだったのだ。1980年前後のレコード屋で、彼のレコードを見かけることが殆どなかったからだ。それがリアルな日本の状況であり、米国に移住してからの彼の存在感であった。稀に見る海外のレコード(ギル・エヴァンスのもの)や雑誌の短信でしか、知り得ることはなかった。
それがボクのリアル・タイムの菊地雅章体験だった。
[2011-03-14の記事] いつか思い起こすであろうこの日に
あとにして思うと、あの日が歴史の歯車が変わった日だ、ということを思い起こすことがある。あの日の前後で空気が変わる、ということがあるのだ。ボクにとっては、所謂9.11が忘れがたくそのような日になっている。ぼんやりと飛行機が飛び込んだWTCの映像をみていた。非現実的な映像であり、何かが世界で変わってしまった事を告げていた。なにか無力感が漂う、それでいて手の届かない世界に連れていかれるような感覚。なんだか命綱をつけずに宇宙に漂いでるような、それでいて穏やかな無力感に包まれるような。それが今に至るPax Americanaの終焉過程のはじまりであり、多極化社会(に向かっていると思える)へのカオスにまみれた日々のはじまりであった。
今日もそのときと同じような乾いた無力感のなかにある。たぶんこれが日本社会に対し何か作用することは間違いなくて、やはり未だ知ることがなかった世界へ漂いだしているのだろう。その一つの節目のような日として忘れないだろう。「戦後日本」というボクが生きてきたレジームからの屈曲点。どこに行くのだろうか。いや、行くべきであろうか。
そんな感覚と妙にマッチするような不思議な意識の浮遊感を伴う音楽が菊地雅章のススト。当時、菊地雅章はニューヨーク在住。ギル・エヴァンスやマイルス・デイヴィスと交流していたらしい。寡作家の彼が久々にリリースしたのがこのススト。米Columbiaからの発売。国内盤より先に輸入盤屋に入荷して驚いた。1975年頃のマイルスのファンクを洗練した音楽。あるいはギル・エヴァンスの音のなかのジャズの残滓(多分にミンガスから来ている)を洗い流した、昂奮も耽美もなく、浮遊するグルーヴ感がオリジナリティを強く主張している。今聴いても、全く古びていない。1970年代に独自のアイデンティティを確立していった日本のジャズの最高峰の一つではなかろうか。強い浮遊感に囚われる。今、時代が長い浮遊に入ったように。