K’s Jazz Days

K’s Jazz Days

ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

様々な別れのカタチ

今年はそんな年だ。

夏頃に尊敬する先達が他界された。もう数年前から癌。両親より少し下の世代で戦後すぐに小学校に入るくらい、70代後半であった。だから癌の進行は、治療の甲斐もあり、極めて緩慢。最期は自宅でゆっくりと眠りに入られた。

2年前の春にある会合で一緒になり(いや、いつもは出ない会合だけど、彼が出席すると聞き出た)、懇親会でゆっくり話をした。着座したときにお互い最期の会話かもしれない、そんな覚悟が気のようにゆっくり溢れた、穏やかに。感謝の気持ちを伝え、受け取って頂いた、と思う。勿論、コトバに出さなかったのだけど。だから、そのときに別れができたと思う。それでも今年になって、いよいよその時期が近づいていると知り、再び、会うことにした。ハワイから帰り、ヴェトナムに旅立つまでの1.5日。金沢から神奈川を往復した。自宅の介護ベッドの上で寝てられていたが、ゆっくりと杯を交わした。前回ほどは最期、という感じはなく、ゆっくりと時間を過ごした。家族もそんな彼との時間を慈しみながら、明るく過ごされていた。その後、一月半、旅立たれた。彼は大気に溶けてしまったように、どこかに還っていったような気がするし、技術者としての感性のようなものは、ボクや関係者の中で、ともに生きている。彼の精神に包まれて生きているのだ。別れ、のような、別れでもないようなカタチ。

 

まだある。数年前、実家で独居していた母が認知症になった。金沢に引き取り、介護施設で暮らしてもらっている。認知症の進行は非線形で、ゆっくりと進み、非連続に落ち込む。その繰り返しだ。最近になって、様々な意識、認知能力が落ちている。長男であるボクのことは間違いなく認識し、訪ねていくと喜んでくれていた。しかし、ここ数週間で、それが怪しくなってきている。亡父と混濁したり、誰か分からなかったり、戻ったり。行きつ、戻りつ。確かに、別れのプロセスの過程なのだな、と強く認識した。生前に別れを済ませる、そんななかにある。だから認識されないときは、ときとして憎悪の眼を見せるときもある。これは辛い。しかし、戻ったときには以前のような感じ。彼岸との間を行ったり来たりする母と相対している日々、なのだ。これも別れのカタチ。

  

さらにある。近所のバーの主人、一癖も二癖も三癖もある人なのだけど、同じ学窓の先輩・後輩ということが最初にわかり、何となく親しくしてくれたような気がする。数少ない、金沢の知りあい、とも云える(不思議なほど、金沢での知り合いは金沢の人でない)。彼の場合も癌で、そして還暦を過ぎて数年。まだ若い。今春に末期であることが判明し、僅か半年くらいで世を去った。彼らしい、慌ただしさ、である。彼自身、店の営業継続に拘り、治療と営業を交互に続けていて、闘病を意識させることはなかった。夏にはL君の家でバーベキューをした程だ。その後すぐに、バーで一杯やったのが、今生の別れ。直後の入院の後、バーには戻ってこなかった。あまりにも早い。全く気持ちの中では変わっていなくて、通勤路にあるバーの灯が気になって仕方がない。困ったものだ。

昨夜、仕事からの帰り、いつものように通ると、少し店のドアが開いていて、灯がついていた。すっかり寂しくなっていた通りが、賑わっているようにも思えた、まだ開店準備中だったが。カウンターのなかで、レコードが並ぶ棚のほうを向いた彼は、相変わらず黒(濃紺だったか)のシャツ。慌ただしくしていた。しかし店内の様子がおかしい。カウンターの後ろにあるスペースには、大きなテーブルが置かれ、そこにグラスやナイフ・フォークが並べられている。どうするんだろう、と思った。暫く、灯りがついた窓を覗いていたのだけど、カウンターを出て、テーブルに配膳する彼の姿を見て驚いた。いや、彼ではなかった。彼が居る訳はないのだから、勿論。犀川沿いに店を出しているJ氏だった。久しぶりに見かけた。居抜きで引き取り、若干の改装で店を出すのだろうかと、ぼんやり思った。寂しい気持ちが残った。そこで見たことを、彼の店の客だったNさんに話をしたら、そんな筈はないと怒られ、いや見たのだと焦った。あれは何だったのだろうか。

空手をやっているNさんに頭を小突かれているところで、暗い、少し寒い場所に場面は変わった。午前5時。夜明け前だ。いやいや参った。これも別れのカタチ、なのだろうか。

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