[さらに追記]
昨日届いた1981年の別冊は、1978年の30号と1980年の36号の特集を合冊したもの、ということが分かった。当時購入したのは36号。半分は読んだ記事なので既視感、だった訳だ。1978年の30号は最近入手したので、まだ読んでいない。
眺めていると実に楽しい:
瀬戸内寂聴:ドルフィーのラストデイト(驚き)
浅川マキ:Clefの頃のビリー・ホリディ(さもありなん)
翠川敬基と森山威男:デイヴ・ブルーベック・カルテットの違う盤
翠川敬基はお洒落な東京の大学生の音楽って聴き方(女の子に貸す)、森山威男はジョー・モレロのブラッシに惹かれ、練習した話(これには凄く納得)
などなど
[追記]
明らかに病後で疲れている。しかも20時過ぎまで働いた。
何を書いているのだ。1981年頃はジャズを聴きはじめて3年目じゃないか。頭の中では1976年と思い、手は1981年と書く。そして1981年が正解。
この既視感は、確かに読んだ既視感、に違いない。先日、本棚を隅から隅まで眺め、持っていないことを確認したのだけど。だけど、絶対読んでいた、に違いない。
40年の記憶の風化って、こんなものだ、とほほ。
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今日届いた本。1981年のジャズ批評別冊。
まだ高校生の頃だから、この次の同特集からだ、リアルタイムに入手したのは。
だから初めて開く本。
しかし眺めていると、異様に既視感がある。それは筆者の伝えようとする熱気が、音楽のソレの体をして、そうではなくてモダンジャズからフリージャズに痺れた連中、老いも若きも、の自分語りだから。鬱陶しくも愉しい。
ジャズを聴いていなかった筈のボクも、当時のジャズファンの1人となって、21世紀には殆ど失われた記憶のアイコンを彷徨うのだ。ありえない既視感を旅するための本だ。
と、気がついたのは、三条東宝公楽裏のザボ、の店主の記事を見たから。尖った気分になるにはフリージャズ専門のザボでオーネットやシェップを聴く、それが1970年代末の京都の気分だったのだ。
そんな時期を旅する時間が愛おしい。