K’s Jazz Days

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ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

菊地雅章:Love Song (1995) ピアニズムの極地

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菊地雅章:Love Song (1995, Media ring)
1. In Love In Vain
2. Incurably Romantic
3. So In Love
4. Someday My Prince Will Come
5. Stella By Starlight
6. The Man I Love
7. Only The Lonely
8. Love Song
菊地雅章(p)
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元?ECMのプロデューサ、アイヒャーの後継とも目された、サン・チョンがECM離脱後に収録した録音であるHanamichiを聴いた:

ECMと菊地の確執のようなものは、Jazz Tokyoの稲岡さんの追悼記事からも窺い知れる。 

激論の内容は、自宅ロフトで収録したことによる微弱ノイズとマンフレートによるリヴァーブの付加の問題。Pooさんは、このソロに関してはリヴァーブの付加を頑なに拒んだ。

既にECMからリリースされている「黒いオルフェ」を聴くと、過剰な残響処理が菊地のピアニズムを損なっていること、に気がつくだろう。だからサン・チョンの動きは何となく理解できるし、共感のようなものも感じる。晩年の菊地がHanamichiを聴いて喜んだ、というライナーノートの逸話もよろこばしい。

しかし改めて過去のソロ作品(存外に多い)を聴くと、そのピアニズムに圧倒され、Hanamichiがその枯れたエピローグに過ぎない、という想いが強くなる。このLove Songの美しさは例えようのないのないもので、演奏が作り出すアコウスティックな音響空間にコトバが出ない。ピアノという人工共鳴体を慈しみ、打音と残響をフラットに扱い音を紡ぐ姿の忠実なドキュメンタリー。曲と演奏が継ぎ目なく一体化していて、奏者の思弁の結果が溶けた形で流れ出る、全てが捧げられたピアニズムの極地が発現している。それを感じさせる、演奏からマスタリングまでの総合芸術的な存在感は凄い。

ボクがモンクのピアノに打たれるのは、あの独特な律動だけではない。打音から広がる煌めくピアニズム、それも非クラシック的な音に酔ってしまうのだ。菊地雅章もまたそのような打音を獲得したピアニストであることが、このアルバムから分かる。

最近、DA変換器を換えたので、それを味わうために聴いてみたのだけど、改めてその美しさに打たれてしまった。

ECMの過剰残響に気持ちがいくと、その表面的な自然感・静粛感が気になって仕方がない。それを気づかされたのは菊地雅章のコンサート、ECMの黒いオルフェでの収録。youtubeに残されていたエッジの効いた鋭い打鍵は残響処理で緩くなっていたのだ。勿論、今でもECMは好きだし聴いてはいるのだけど、手放しでの称賛、ではなくなったのは、そんな理由なのだ。

このLove songをはじめとする一連のソロ作品をHigh resolution/DSDで出してもらえないだろうか。切望して止まない。 また前出の稲岡さんの追悼記事に菊地さんの未発表ソロのテープの話が出ている。黒いオルフェは、残念な残響付加がある作品なので、是非、手元にあるテープをNadja21で発売して欲しいと思う。

 

[2017-06-24] おしまいもはじまりもない

おしまいもはじまりもない語り、を聴いているような気分だ。時間すら、止まってしまいそうな、柔らかな空間のなかにある。他のソロ、特に最晩年の黒いオルフェと比べると、やや音が暖かい。包み込むような優しさがある、ように感じる。

 確かに、モンクのように寡黙であり、また音と音の間が饒舌である。しかし打鍵の柔らかさ、が際だって違うように思う。というか、音数が似ているだけ、のようにも思える。

ファンクをやっている時だって、結局のところ、寡黙であり饒舌である、そんな矛盾した印象を与える、不思議な奏者であることが異彩であり、魅力なのだと思っている。

LOVE SONG

LOVE SONG

 

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