美しい装丁の本。昭和16年、果ての見えない日中戦争の打開のために破滅的な南方進出をはじめた頃、対米宣戦布告のわずか3ヶ月前に出版された本。美術教師であった著者の最初で最後の本*。彼は昭和19年、南方で散華した。雪山が好きで、本の装丁にスキーシールを描いた彼の胸中を想うと、いたたまれない。そして、この一冊が残った。
ボクがこの本を知ったのは平凡社から出版されたとき。その文章に魅了された。山に登っているときの高揚感とその裏側にある冷めた心象風景が織りなす「心の揺らぎ」のようなものが甘酸っぱい。そして、雲の切れ間から差し込む光で、雪の稜線が輝いたときに感じるような、懐かしさやときめきが閃光のように、心に軌跡を残す。読み辛いかもしれないが、一読して欲しい。
もとの朋文堂版の美しさ、を知り、しばらく神保町で探していた。そんなに時間がかからず手に入った。昭和18年の再版本。戦局が悪化している時分なのだけど、紙質は悪くない。想像以上に手の込んだ本。頁をめくると小さな版画が貼付けられている。尾瀬沼の地図の上にコンパスを乗せた図。
先日、15年振りくらいに北アルプスの山小屋に泊まった。燕山荘に泊まった。楽しい友人たちとの楽しい山行だった。金沢に来てから、多くは独りで山に入っていたので、なんとも懐かしい感じだった。燕山荘には畦地梅太郎や熊谷榧の版画が多く飾られ、楽しむことができた。山に登らなかった十数年、代償行為のように山の本を買い漁った。そんな頃のことを思いだした。夜半過ぎにそっと山を感じたいときは、山の本を開くだけで良い。独りで歩いているときの鼓動や呼吸、そして風の音を微かに思いだすことができる。
そんな山の本に囲まれていることを、昨夜思いだしたのだ。そして加藤泰三の名前も。
*生前刊行されたのは、この本のみ。遺族の方が大切に保管されていた未刊行の原稿を集成し、二冊目の著作「山へ還る」が刊行されたのは比較的最近のことだったと思う。駿河台の茗渓堂で見かけたときは驚いた。勿論、連れて帰った。