2010年刊行の新装版。装丁,書は藤原新也とのこと。
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最近は読書量が急激に落ちている。眼がみえないのだ。薄く張ったゼラチンのような帳の向こうに文字が見える,ような気がする。物理的に見る力、能力が衰えているという事実を認めたくない気持ちがあるのか、本になかなか気持ちがいかない。だからなおのこと音楽に気持ちがいくのかもしれない。ただ、文字からの快楽を希求する気持ちは依然強いので、なんとも情けない気分になってしまうことが多い。やれやれ、と呟いてしまう。
だから読みたいという気持ちが高まるような本を探しているような感じ。最近では澁澤龍彦とか...
山の画文集というのも好きな分野。そのなかで串田孫一が編集していた「山の文芸誌:アルプ(1958年-1983年)*」関連の人達の、やや高踏的とも云えなくない、透明感のある文章は好みに合う。「辻まこと」はそのなかでも代表的なひとり。
*アルプのアンソロジーが池内紀編集で出版されている。「山の仲間達」、「ちいさな桃源郷」の二冊。金平糖が入った小さな箱のような文集。ときどき開いて文章を拾い上げることが楽しい。辻の文章はシニカルで、味がとてもある。洒脱な江戸っ子なのだ。
この「辻まこと」を追いかけると、大正年間、彼の親の時代が透け通ってみえてくる。父親:辻潤、母親:伊藤野枝。関東大震災のどさくさで、憲兵大尉 甘粕正彦の部隊に惨殺され、井戸に投げ込まれた「大杉事件」。先般、日経新聞の日曜連載「瀬戸内寂聴:奇縁まんだら」で大杉魔子(辻まことの異父妹となる)が取り上げられて、再び意識のうえに浮かび上がってきた。そう「瀬戸内寂聴:美は乱調にあり」をまだ読んでいなかった。大杉魔子の話もそのときの取材に違いない,と。
早速入手して一気に読み終えた。丁度、金沢から広島への出張の車中。瀬戸内寂聴が博多の大杉魔子に面会するはじまりの場面とオーヴァーラップするような穏やかな日和の瀬戸内。この小説は、伊藤野枝の肉親(叔母と妹)の回顧談ではじまる。野枝の遺児(魔子、ルイズ)は惨殺当時は幼くて、野枝の面影を映すだけ。回顧談が圧倒的な迫力。大正年間の野枝の奔放な在り方が迫り来る。それだけに、その後の小説仕立ての部分、女学校教師の辻潤との出会いから同棲から別離、大杉栄と出会いまで、の濃厚な記述には若干辟易するものがあった。オトコのボクには呑みくだせないくらい濃いオンナの文学。回顧談のリアルな奔放さ、を減ずるような印象をもった。伊藤野枝は、瀬戸内寂聴自身の感情移入をさせやすい存在なのだろう。オトコからオコトへの気持ちの移ろいの場面が延々続く。ふう。ただ「平塚らいてう」をはじめとする青踏社の女性、辻潤、大杉栄たちの描写は、感情移入がないので、とても気持よく読めた。辻潤は後年の奇矯な生涯、半ば気が狂い天狗のマネをして屋根から飛び降りたり、その果てに戦時中に餓死、のイメエジと違って、粋な江戸っ子として描かれていて、新鮮な感じであった。それにしても野枝の記述での悪酔いはきつかったけど。
このあたりの人間模様は複雑怪奇豪華絢爛といった趣か。大杉栄からは後藤新平やら玄洋社も出てくるし、竹中英太郎(竹中労の父親、挿画家)や添田唖然坊(のんき節の演歌師)のようなアナキストの系譜、伊藤野枝からは青踏社の女性たち(その係累の先が市川房枝)、対する甘粕正彦からは溥儀だの満映関係(李香蘭こと山口淑子など)だの、辻潤の息子「まこと」の友人が竹久夢二の息子「不二彦」で、「まこと」と武林無想庵の娘「イヴォンヌ」との間にできた娘が「不二彦」の養女とか、それを書きつけ本にしたのが「山本夏彦」だったり(無想庵物語)、まあなんとも。
それにしても読書って、意識のなかの時間・時代の遷移手段であることをまざまざと感じた。ボクが当時の大杉魔子と同じ年代になっていて、その意識を持って昭和40年頃の空気を吸い込みことができ、その気持ちで彼らの親、祖父母の世代(大正を生きた人々)をみているような、とても不思議な時代感覚に浸れたひととき、は貴重な体験だった。最初の回顧談は、そんな力を持つ内容であった。
さて続編「諧調は偽りなり」を読もうか迷っている広島の朝なのだ。