K’s Jazz Days

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ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

山口果林:安部公房とわたし(2013,講談社)遠い過去になってしまった作家の記憶を呼び覚ますのか


 タイに来ても、別にすることがないので朝ビールで読書三昧。時間のネジが緩んでいるので、とてもモノゴトがゆっくりと動いている。割り切って、Do nothingという時間の過ごし方を楽しんでいる。

 成田の国内線ターミナルから国際線のイミグレーションを抜けたところに本屋がある。そこでフッと手にした本は面白いことが多い。これは安部公房の晩年に「同居」した女優の手記。少し前に報道で知って気になっていた本。この手の本は、オンナの手で再造形されたオトコの姿があざとい感じで辟易することがあるのだけど、この本はそうでもなくて面白く読めた。女優自身の自伝のなかに登場する最大の役者が安部公房という構図。淡々と安部公房と過ごしたときの出来事が綴られていている。感情を抑えた記述に好感を持った。

 新潮社の文庫本のコーナーに安部公房が溢れていて、ボクもその大半を読んだのは30年以上前のこと。本屋の書架にも、ボクの記憶にもその残滓すらない。時代の変化に耐えうる物語を書いていたのか、今一度読み直したくなった。

 遠い過去になってしまった作家の記憶を呼び覚ますのか、そんな感覚にさせられたことで十分と価値がある本だと思った。安部公房は、大江健三郎の悪文よりは、随分ましだったように記憶している。三島由紀夫のような古典として耐えうるものだったのか、とても気になってきた。帰国したら、砂の女とか箱男を再読しようと思う。

追記(翌朝):斜め読みでコレを書いたのだけど、その後、完読。安部公房の晩年の作品が書かれた時間が、濃厚、ということもなく、適度にサンプリングされて書かれている。女優として、自我を殺して「執筆者」を演じる醒めた視点があるのではないか。安部公房という作家を知るための本としての出来は、すこぶる良好ではないか。とても残念だったことは、ボクが熱心な安部公房ファンでなかったこと。ドキドキするような読書にならなかったから。勿論、作者の責ではない。