私はクルマで書店に乗り付ける習慣が全くないので、(金澤転居直前の)リブロの閉店には参った。徒歩圏内(市街地と思って)に行きたい本屋がない。その後できた古書店「オヨヨ書林」にはとても感謝している。だけど新刊本については全く眼が見えなくなってしまった。認知したものをネットで買うのはいいのだが、初期の認知における現実の店舗の良さ、背表紙を眺める事の閲覧性、予期せぬ本と出会う偶発性、本と過ごす空間の共時性などは、ネット書店にはない。将来、金澤から離れるとしたら、間違い無くこの問題。まあ今のところは山、スキー、酒食で金澤に大満足なのだけど。
8月の終わりに京都を歩いていて久々に大きな書店にふらっと入った。文芸新刊の棚で眼に入った本。巻頭「革命のためのサウンドトラック」。私は小説をあまり(ほとんど)読まないので、知らなかった「清水アリカ」だけど、乾いた断片的な文章が作る暴力的な雰囲気に捕まって手にした。肺癌で亡くなった作家の、全一冊の全集。
喫茶店で奥付の前に書いてある年譜をみた。1962-2010。2歳年下。いい年齢でケリをつけている。何と同じ時期にD大に通っている。英文科。軽音楽部か、同級生のM君(30年前に貸したLPレコードを未だに返してくれていない)の知り合いだな。学生運動やってたって云っても、あの時期は矮小化していて田辺への移転反対闘争だな、云々。今は対岸の冥土におられる方だけど、学生の頃も私とは「見えない川」の対岸にいたような奴だな。仕事も広告代理店からフリーランスだしね。
そんな予期せぬ本(や知らなかった同窓の作家)を懐かしい京都で手にして、金沢でも改めて徒歩圏内に素敵な本屋ができないかなあ、と思った。
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そんなメモを書いてから早くも数週間過ぎた。巻頭の「革命のためのサウンドトラック」を読んだ。90年すばる文学賞を受賞と。嫌いじゃない。嘔吐を誘うような生臭い光景や暴力を、手が届かない距離で書いている。だから腐敗臭や血の臭いが届かない。いわば空っぽな空間に意味づけしたような小説。徹底していていい。
ボクには何となく分かっているのだ。1980年前後に同じ大学にいたから。ボクたちは何もしないうちに、乗り遅れた世代なのだ。コミューンの夢に取り憑かれれた連中が暴れ回った時代が終わって、残り香だけが京都に漂っていた。キミが書いているアノ埋め立て地やクラブの無意味な空間は、反米反帝国主義だとかキャンパス移転反対闘争とか、無意味(いや言い過ぎた、結果がない以上、無価値のほうが正しい)なmovementsや、退廃臭がぷんぷんしていた西部講堂とか、そんな80年頃の空気のコピーだと。きっとボクよりもマジメに奔放だったキミは、遅れを取り戻すべく、アノ学生運動に周回遅れで飛び込んだ。
だけどボクらは本当に乗り遅れたのだろうか。アイラーを聴きながら、阿部薫みたいに自らの存在にケリをつけて、時代を疾走した、なんて云うことが「乗った」ことだったのだろうか。キミは自分の時代への懐疑を持ち、時代を自らのものにできなかったのでゃないか。そんな諦念のようなものを感じてしまった。
世紀末よりも一層、世紀末のような空気が漂う今、改めて時代を生きることを考えなきゃいけないのだと思う。やはり時代を作るのは我々であって、いつかの時代のような大失敗(国土を焦土と化す)をしてはいけないのだ。もはや、そんな時代と向き合えない、知らないキミに哀悼の意を表したい。