金澤の友人Kさんからの宿題(小僧蔵三冊文庫への三冊の本を選びなさい)への提出物。金澤に関する本らしいのだけど、ボクの選択は必ずしもそうではない。2冊め、3冊めは明示的に金澤に関係はしていない。だけど先の大戦で焼夷弾に焼かれ、多くの街から失われてしまった光景が未だ残る金澤だから、昔日の日本へのノスタルジイを捧ぐるという象徴的な意味で理解してもらいたい、と思っている。
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なんかふわふわした旅のような金澤での日々だけど、と云おうか、
そんな日々だから、何か本を持ち歩かないと気が済まない。でも三冊、というのは厳しい選択。なかなか優柔不断な性格だから。いつも持ち歩いている本、なぜ持ち歩くのか、なぜなら読み終わらないから、多分、読み終えるための本じゃないから、断片をつまむような、酒肴のような本を少し。
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらへて老を迎ふる者は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて漂泊の思やまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひてやゝ年も暮、春立てる霞の空に、白川の関越えんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取る物手につかず、股引の破れをつづり笠の緒つけかへて、三里に灸すうるより、松島の月まづ心にかゝりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
草の戸も住みかはる代ぞ雛の家
表八句を庵の柱にかけおく。
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ボクが金澤に住んで一年と三ヶ月が過ぎた。普通であれば、そろそろ根が生えて、しっかりとした日常を送るのでしょうが、ボクはますます根切りが進んで、とてもふわふわした日々を送っている。何だか旅情に満ちた気分のなか。何故だろうか。そんなこともあって、金澤から出かけることが随分と億劫になっている。
旅情というものが、その地にあるもの、例えば街角の空気のようなものやその場所の人々との、触れ合いそうで触れ合わない絶妙の距離感から醸しだされるものならば、金澤に移り住んでからの生活がまさにそのような距離感のなかにある。だから気持ちのなかでは、金澤では「日々旅にして旅を栖とす」。片雲は我の中にありて、我住まう金澤の日々が旅也。
通読しなくても良い本なのだと思う。そのときの気分でパラパラ読むと何かしら酔うような気持ちになれるから。
ここまで書いて思い出したのが、寺町の「つば甚」。いつだったか松尾芭蕉逗留の部屋で、恩師と食事したことがある。江戸期の商家の部屋を移設したそうだ。奥の細道の仕舞いかた、の頃。そんな話をききながら頂いた香箱蟹が美味しかったなあ、と1年前のことを思い出すのは少し浅ましいなあ。
草の戸も住みかはる代ぞ雛の家
表八句を庵の柱にかけおく。
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ボクが金澤に住んで一年と三ヶ月が過ぎた。普通であれば、そろそろ根が生えて、しっかりとした日常を送るのでしょうが、ボクはますます根切りが進んで、とてもふわふわした日々を送っている。何だか旅情に満ちた気分のなか。何故だろうか。そんなこともあって、金澤から出かけることが随分と億劫になっている。
旅情というものが、その地にあるもの、例えば街角の空気のようなものやその場所の人々との、触れ合いそうで触れ合わない絶妙の距離感から醸しだされるものならば、金澤に移り住んでからの生活がまさにそのような距離感のなかにある。だから気持ちのなかでは、金澤では「日々旅にして旅を栖とす」。片雲は我の中にありて、我住まう金澤の日々が旅也。
通読しなくても良い本なのだと思う。そのときの気分でパラパラ読むと何かしら酔うような気持ちになれるから。
ここまで書いて思い出したのが、寺町の「つば甚」。いつだったか松尾芭蕉逗留の部屋で、恩師と食事したことがある。江戸期の商家の部屋を移設したそうだ。奥の細道の仕舞いかた、の頃。そんな話をききながら頂いた香箱蟹が美味しかったなあ、と1年前のことを思い出すのは少し浅ましいなあ。
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金澤の晩秋から初冬にかけて、独りで仕事場で過ごしている。いつだったか、窓から見える大きな山の裾に何回も何回も雷が走るのを見ていた.その夜半、友人とふたりで呑み、早々に別れた。雷鳴が去ったあとの湿った街、材木町のあたり、を歩いたのだけど、暗い街を歩く自分をどこかから見ているような心地わるさがあり、何だろうかと思ったことがある。内田百鬼園の小説のフラッシュバックだと気がついたのは、反芻するように仕事場で思い出していたとき。いつも呑みすぎているから、記憶の底から引っ張り出してくることが遅くなる。
あるいは、どこか知らないところへ行って夜をすごすとき、いつも気持ちの中に暗く潜んでいるのは、内田百鬼園の「冥途」、「旅順入場式」のようなけしき。我が身がなにか漠とした不安な心地に包まれ、明とも暗とも云えないなかを歩む。けしきが人ごとのようにシネマスコープがごとく流れていく。
この本は勿論、大戦前の東京をイメイジさせるものなのだけど、だから香り立つノスタルジイと重なるような風景は二度も焼けてしまった東京にはない(谷中とかは知らないので...)。金澤の地、江戸期から緩慢に変遷している街、のなかに大正期から昭和初期にかけての風景が漂っていて、想像力が足りないボクのノスタルジイを補ってくれている。だからこの本から受ける心象風景と金澤が少なからず重畳している、ボクのなかでは。
だから酔って帰ったときに手にして、少しだけ味わうような読み方なので、いつまでも終わらないし、そもそも読みはじめた、とは云えないような本なのだけど。
蛇足だけど、内田百鬼園のこれらの短篇や「サラサーテの盤」を底本として編まれた映画が鈴木清順の「ツゴイネルワイゼン」。これらの本の空気を見事に映像化している、と思う。あわせて製作された「陽炎座」、「夢二」も同様。学生時代に大学があった京都で「ツゴイネルワイゼン」をみて、その後すぐに舞台である鎌倉に移り住むことになった。そして陽炎座の作者・鏡花の地、あるいは「夢二」の舞台である金澤に移り住むことになったボクのミクロコスモスの外苑には、内田百鬼園が存在しているように思う。
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大正期に名をなした朔太郎は、新しい昭和という時空間をアンソロジイで表したのだと思う。決して明るい色彩に彩られている訳でもなく、自身の作「月に吠える」から続くような不安に満ちた、低く暗い雲に覆われた時代。そんな空気が一杯詰まった一冊。少し長い旅に出るときに持参する。
田中冬二や津村信夫の詩、信州の心象風景なのだけど、ボクのなかでは金澤と大きく重なっている。犀川の奥に見える山々が冠雪する頃、山の方角から強い風が吹き、ボクの安借家の窓をうるさく鳴らす。そんな夜があけて、少しだけ晴れあがった朝、みえる白い山嶺。嬉しい。金澤に来てよかったと思う。
中原中也も勿論取り上げられている。ボクが住んでいる寺町台地のうえに陸軍の師団があって、軍医だった父とともに幼年期を過ごしている。そんな体験が如何様に反映されているのか知らないのだけど、そんなツマラナイ「豆知識」のお陰もあって、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」とゆれるブランコが何故か、冬の金澤の光景であるように思えて仕方がないのだ。本当に荒れると風が強いしね。
この本もそんな「つまみ読み」の一冊なので、いつまでも読み終えられない一冊、でもあるのだ。まあアンソロジイなんて、そんなモノだと思うけど。