網野善彦:「日本」とはなにか:能登の時国家について記述がある.豊かな水呑百性,がいたという興味ふかい話
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ボクの金澤の友人Kさんが中心となって、本のイベントを行っている。知人たちが本を三冊づつ持ち寄り。テーマは石川県に関する本。展示場所は金沢・尾張町「壽屋」。ボクは3冊提供したのだけど、更に単行本のリクエストがあり,追加の4冊を提供した。
(1)網野善彦:「日本」とはなにか
ボクたちが生きている、感じている空気や大気のようなものの一部が,生まれたときから教え込まれた世界観や歴史観に支配されていることは間違いない。だから、意識せずともニホンがいい、とかカナザワをアイする、なんて思ったりする。網野善彦の本を読むと、そんな無意識な意識に何かしら刃物を突きつけられた感覚がある。ボクは万事中庸をヨシとするツマラナイ人間なのだけど、少々人間不信なので、少々右な思潮に共鳴するコトが多い(ヒトの全面的な善意を前提とした思想はなんとなく怖いから)。網野善彦は経歴的に左な思潮のヒトなのだけど、組織的活動に失望したヒトだからか,健全でかつラディカルな議論には感心する部分が多い。
日本という国号が、中国からみた位置関係に根ざしており(聖徳太子の煬帝への手紙,日の出ずる国,と同じ発想)、愛国というなら国号から変えるべきだ,とか(あれまあ,なんだけど)。そんな彼の議論の一つに、民衆のダイナミクスを歴史のなかで再現する、がある。抑圧された哀しい存在、といような上からの目線ではなくて、ある時代に生きて印しを残した人々を蘇らせている。中世の百姓は農民と同義ではなくて、海運や商業にも活発で、豊かな水呑百姓もいたことを、古文書から明らかにしている。そのなかで日本海側の日本がかつては豊かな経済圏を形成しており(北前船がそうですよね)、能登の時国家が,中世の「百姓」が単なる農民ではない事例として挙げられている。庶民だって逞しいのだ。それに日本海側が決して「裏日本」でないことを教えてくれる。
(2)吉田健一:私の食物誌
金沢というと吉田健一なのだけど,ちょっと苦手。なんか論理的でない生硬な文章ってダメなのだ。呑み込めない。だけど、きっと肩の力を抜いて書いたに違いない本書は緩くて、美味しい文章になっている。金沢に関連するのは、蕪鮨,蟹,鶴来の骨酒....理屈抜きにページをめくって美味しい気持ちを少し頂戴するのが楽しい本。
(3)長崎幸雄:わが白山連峰
石川の山の美しさはブナの森にある。今年、いったいどれだけのブナの尾根を登ったのだろうか。ブナがときとして語りかけることを感じたことがある。言葉にならない言葉、生ける悦びのようなものを発散するのだ。匂ひのようなものを出したり,木をゆすったり。ブナや毛モノの気配が濃厚な白山周辺の山はボクにとって,とても麗しい。残雪期の山を,ブナのある稜線を辿るのが今のボクの夢なのだ。
この本は白山の山頂まで方位盤を担ぎ上げた岳人の手記。今や死語かもしれないストイックな山との付き合いが,朴訥とした筆致から伝わる。こんな体力の塊のような方が夭逝されるのだから,ホントウに人生はわからない。
(4)村上春樹:国境の南,太陽の西
アレッと思うかもしれないから先にネタを云う。タイトルがナット・キング・コールの曲という理由で、最近映画化ではやりのノルウエィの森より好きな訳ではない.実はストーリィの変曲点に小松空港が出てくるのだ。雪で飛行機が遅れる。それが非日常的な世界から、非連続的に日常に戻ってくる契機になる。その土地が、旭川(ノルウェイの森でおなじみ)ではなくて石川なのだ。
村上春樹は一回り上の世代なのだけど、ボクたちの世代が大学生の頃にデビューした。それから30年あまり、読み続けているから同時代を生きてきた感覚はある。最初の3作から4作(羊)あたりまでの,感情が希薄な筆致がとても気に入っていたし,今もそう。だからノルウエィの森が安っぽく感じてしまった。「国境の南,太陽の西」もある種の恋愛小説なのだけど、恋愛と呼べるようなもの,にも見えない日常から切れた感じが初期の作品と味が似ていてボクの好みにあっている。ということで,アタマの何処かに小松空港の記憶が残っていたのだ。
だから何なのさ,っていわないで。何でもないのだから。