歩きながら、考えていた。見えているものが実相であるならば、見えない仮相のような何かがあって、見えているもの以上に感覚を動かすことがある。ある場所を歩いていて、ほんの微かな匂いのようなものを淡い大気の流れのなかに感じた瞬間、目の前の景色がまるで違ったものに見える、正確には感じる、ことがあるような。一方で、誰にも見えるものが見えないこともある。視界に光学像として物理的に存在したのだろうが、認知の過程で丁寧に消されているような、ことだと思う。
ブナの森を歩く、ということが、とても気になり出したのは金沢に住んでから。様々な季節や天候の折、その姿を眺めてきた。姿は確かに美しい(とボクは思う)。樹々の形や色合いを愉しむという物理的にフィルム(今やディジタルデータだけど)に定着できるような、ことだけが気になる理由ではない。見えない何か、を感じさせる瞬間・瞬間を感じたことが多々あったから。確かに「彼ら」は生きていて、その生を知らせたい衝動を持っている、ことを。
それでいて、同行者から教えられてから見えるものも多く、なんだか洞窟に棲息する生き物のように、眼が退化して、違うものを感じるようになっている、のだろうか。
今回、チブリ尾根を歩いた。晴天が続くと、ブナの森の「微かな生気」のようなものは消えてしまう。ただの美しい紅葉巡り、のなるのだろう、と思っていた。だけど、見える筈のものを見て、そして見えない筈のものを見るために、立ち止まったり、振り返ったり、鼻腔を膨らませたり、ファインダを通して視界を切り取ったり、そんなことをして遊んでいた。
10月最初の休日で、カレンダー最後の休日。疲れが溜まっていて、市ノ瀬に着いた段階で頂上を意識したくなかった。気分を切り替えて、避難小屋への標高差・約1000m、往復の距離7kmとしたことで、チブリ尾根そのものを愉しむ気分になった。
写真は時系列。光が時々刻々変わっていく。
水飲み場手前の沢筋のブナ。まだ朝日は射し込んでいなかった。曇天で憂鬱な感じの森だった。
避難小屋までの最後の急登から振り返るのが好きだ。
三ノ塔への尾根
避難小屋からの別山
下る頃には陽が強まってきた。
水飲み場手前で白山が見えた。ボクが登って、白山が見えなかったことはない。いつも、姿を見せて頂くよう手を合わせてお願いしているから。
登山口近くではすっかり晴天