インターネットで知り得ること、は多く、様々な音の情報が飛び交っている。そのなかには、時折、気持の芯を突くものもある。
これは月光茶房の原田さんの投稿で知ったアルバム。
田中泯との共演。improvised musicは概ね苦手なのだけど、そう感じた20歳そこそこの頃と、感じ方が変わってきていると思うこの頃(50代)なので、少し聴きはじめている。ベイリーのソロアルバムで、彼のギターに潜む無機的な美、のようなもの、それは楽器が出し得る音の極北の地、のようなものなのだけど、そんなものを感じる瞬間があって、何か分からない感情のようなものを刺激する。楽しい、とは思わないが、劇薬を横に置いたような気分。音の断片のなかに、現代音楽やモンクのピアノのようなものを極端にデフォルメしたように感じることもある。
30年の時間で何が変わったか、と考えると、僅か5年くらい前からクラシック、特に現代音楽をよく聴くようになったことが大きい、と思う。クラシックで「楽器そのものの音」の艶を意識するようになった。音そのもの愉悦を知ったことが、対極にあるようなimprovised musicを聴く聴覚回路(のようなもの)の入り口を作ったように思える。
[追記]
・何故、このような音世界に聴き入ってしまうのか、美術館は視覚が入り口なのだけど、それと同じようなことが聴覚で起きている、という感覚。
・free music、特にimprovised musicは身体表現と密接な関係があって、音だけ聴いても分からないものも、同じ空間にいると、その音の必然性のようなものを「感じる」ことがあるように思う。このアルバム、雨の音を聴いたり、田中泯の音を聴いたり、ということも空間を感じる上で効果的、のように思った。そんな感覚が生じる、ことに新鮮な驚きを感じた。
apple music: