K’s Jazz Days

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ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

Pierre-Laurent Aimard: Hommage a Messiaen (2008) 金澤に帰ってきて聴いた音


Pierre-Laurent Aimard: Hommage a Messiaen (2008,DG)
  1. Préludes
  2. Catalogue d'oiseauxより
  3. Etudes de rythmeより

  金沢に帰ってきた。何日くらい離れていたのか,数えると9日あまり。こちらへ転居してから最も長い不在。ある意味で金沢と正反対にヴェクタが向いている米国に行っていたのだから、まあ何だか疲れている。そんな訳でびっくりするくらい早い時間から寝ている。眠たい。布団のなかで、裏の竹藪がゆらぐ音を聴きながらうとうとと過ごす時間が気持ち良い。

  帰宅すると渡米前にamacon.comやらamazon.co.ukなんかに注文していた中古のCDやらLPが届いていた。すっかり注文していたことを忘れていたものもあったけど。ニュヨークから持ち帰ったLPレコードはR&B、ロックやジャズ。ポストの中はクラシック。なんだか最近の嗜好って、土地の雰囲気に引っ張られるのか?

  それはさておき、届いていた一枚がエマールの「メシアンへのオマージュ」。本当はエマールの「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」が欲しかったのだけど,高価だったからコレ。ベロフの「幼子イエスに注ぐ20のまなざし」も良かったのだけど、どこか気分に合わないところがあって、最近,気に入ったエマールのメシアンを聴いてみたくなったから。いろいろ教えて頂いている方からの示唆もとても気になっていたし。

  このエマールのメシアンは期待・示唆の通り、大正解。タッチの柔らかさが曲の内包する無機的な厳しさを溶かし、とても形而上的な(というのか抽象的な)曲を身体の周りに流れる大気のような暖かみをもった流れに変えている。聴いているときの心地よさはコトバに書き表せない。日頃の生活のなかで聞こえてこない類のオトが、ヒトの感情・思考というミクロ・コスモスの階梯をくだっていくような愉悦の違和感。

  メシアンという名前をはじめて聞いたのは、昔よく聴いた前衛ジャズ・ピアニスト(だった)加古隆のプロフィール、メシアンの師事、から。加古隆の演奏で気に入っていた点は、とても抽象的な音を粒だたせ、その音の流れをジャズのフォーマットの外縁でぎりぎり載せてくる感じ。要は現代曲の音世界(のようなもの)を,ピアノ・トリオでドライヴさせる疾走感。

  このエマールの演奏を聴いていると、ジャズとかクラシックとかそんな分類への執着が消えて、美しくも非日常的な音を聴くこと、そのものが一番好きなんだなあ、と改めて感じ入った。だから、ジャズで云うインプロヴィゼーションって奏者の思考プロセスの定義であり、アウトプットである音の配列を聴いている限りにおいて、聴き手にとって意味のある議論なのかなあ、と「楽譜に書かれた」(と思っている)音楽を聴きながら思った。感情の基底に射し込む日射し・陰翳の強度って、そんなところから決まらないような。

  あと一つ。ある種のジャズやエスニック音楽、ブルース系の器楽を聴く悦びは、音と音の間隙が造り出す空間がゆらいでいることに感情が同期する、ゆらぎに揺さぶられることだと思っている。クラシック音楽の場合,稠密な音が造り出す暴力的なほどの力に惹き込まれることが多い。このアルバムの音世界の愉しみが、音と音の間隙が造り出す空間がゆらいでいること、に驚いている。だからジャンルを超えた音楽の愉しみが確かにそこに存在していると思えて仕方がないのだ。うれしいことだ。

*20世紀の初頭、バルトーク中欧・東欧の民族音楽を抽象化したものが現代曲の源流の一つになっていると思うのだけど、それがこのような感じで顔を出すのか、と思った。(あるいは中世の宗教曲かもしれないけど)

なんだか米国から帰って、こんな音を聴いていると家に籠もっていたいなあ、という引き籠もりの蠱惑を感じてしまったりするのだ。