K’s Jazz Days

K’s Jazz Days

ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

それは孤立波のように(坂本龍一の逝去を聞いて)

それは孤立波のようにやってくる。一定の速度で、波形が変化せず、伝搬してくる。

そして波高は尖頭値まで高まり、そして静かに下がっていく。

死は、そんなソリトンのような印象で迫ってくる。もう、少し上の世代が孤立波に覆われていく。ボクも傍観者であろう筈がない。そんな感覚。

永く音楽を聴いていると、奏者の死は日常茶飯事でおどろきもしない。ただ世代が迫ってくると、微かに警報音が聴こえるような嫌な感覚。

KYLYN BANDのピコピコ音が出会いで、矢野顕子の肉感的なグルーヴ感と対称的で全く好みではなかった。キーボード奏者というよりは、作曲者としてのポピュラリティは悪くない、と思った。NEO GEOの頃。あるいはヴァレンシアオリンピックでの開会式の音楽、あの色彩感が記憶に残る。

晩年のambient的な作風がとても素晴らしく、asyncは最近でもよく聴いているし、アルヴァ・ノトとの共作もいいなあ。

然るに、政治的発言の軽さ、が気になった。彼を支持した「大衆」の生活基盤を支える安価なエネルギーへの軽さ、である。たかが電気、で集約されている。欧州高級ブランドのスポンサーシップのもとでの自然保護の広告、のようなファッション的な軽さ、が気になってしまったのだ。頂けない。山下達郎の語りのなかで、彼の「人の良さ」からくる軽さのようなことに言及されていて、なるほど、とは思ったが。

音は音として本人からいち早く幽離して独自に主張している。ドルフィーが云うように虚空に消え奏者には捕まえられないのである。そして漂う音はいつまでも聴き手のなかで生きている、のである。

f:id:dailymusiclog:20230404154419j:image