K’s Jazz Days

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ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

澁澤龍彦「高丘親王航海記」(1987年)生と死の間の断崖を軽やかに渡る


最近、急に澁澤龍彦が気になりだした。古書肆の”オヨヨ書林”が重点的に
品揃えをしていることから、手にとる機会が増え、なんとはなく読み出した
のである。とは云っても初めてではない。

ボクが澁澤龍彦「高丘親王航海記」を手にしたのは20年前、1990年のこ
とである。澁澤龍彦が亡くなって3年経て、文春文庫から出版された年で
ある。ボクが澁澤龍彦墓所(北鎌倉)から大きな丘を隔てた川沿いの町
に住んでいた頃のこと。

澁澤龍彦といえば仏文学であり、それも倒錯した性を扱っている印象が先行し、
手に取ることもなかった。20年前に「高丘親王航海記」を手に取ったのはたま
たま新刊の文庫本だったから。そして理屈っぽい講釈が多い奇譚集、という印
象。ただ雲南から東南アジアへの憧憬、エクゾティシズムの根を植え付けられ
たような感じ。これは4年前に初めてバンコクへ行ったときに気がついた。

20年振りに単行本を入手し再び読むと、驚くほど印象が異なった。多分、生
から死へ、という時間の流れの中で、ボクの立ち位置が大きく変わったから
に違いない。現と夢という生の時間のなかでの短い循環を繰り返すなかで、
それが結末へと着実に近づいているという実感。生が現のようなものであれ
ば、死が醒めない夢であって欲しいと云う甘い欲望。そんな思索を掘り起こ
していくような、冷たくて甘い幻想譚の綴りが「高丘親王航海記」であり、迫り
来る死を知覚した澁澤が、自分を仮託した高丘親王のエクゾティシズムの
なかの旅。それが甘くない筈がない。その物語とともに、ボクは生と死の間
の断崖を軽やかに渡ることができるように思ってしまうのだ。

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この「高丘親王航海記」は、平安初期の「薬子の乱」で失権し、出家した高丘
親王が晩年に唐に渡り、更に天竺を目指して南海で消息を絶った史実を題
材にしたもの。南海へ出帆したあとの出来事の掌編を集めたものである。そ
して、その掌編が、現とも夢ともつかぬ時間と空間の間を漂い、次第に死の
予感を強めていく。高丘親王の旅は、天竺からベンガル湾で隔たったスマト
ラで自らを虎に食わせ、白白とした骨になったところで終わっている。狙いと
おり魂は天竺に飛んだ、と予感させるように、お付きの少女「春丸」が鳥とな
って「みーこ」を呼びながら飛んでいく。

高丘親王の夢とも現ともつかぬ掌編を列記:

儒艮: 話をするジュゴンとともに南中国を出帆。
蘭房: 真臘(カンボジア)の王家の閨房に、女の顔をした鳥をみる。
獏園: 盤盤(マレイ)で囚われ、夢を獏に食われる。その獏の肉を王家の姫
     に。
蜜人: 驃(ビルマ)から空を飛ぶ小舟に乗って、蜜人(ミイラ)を捕りに南詔
     国(雲南)へ。
鏡湖: 南詔国の湖に姿が映らぬことから強く死を予感する。驃に戻る。
真珠: 獅子国(セイロン)を目指す途中の騒動で親王は真珠を呑み、痛み
     を感じる。 (著者の喉頭癌が反映。澁澤自身、呑珠庵と号す)
頻伽: スマトラに漂着し盤盤の姫と再会。死に臨み、魂を天竺へと飛ばそ
     うと虎に食われる。

全編を通じ、幼き日の藤原薬子とのエロティックな想い出が通奏低音となって、
甘い香りを添えている。

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「高丘親王航海記」の所感を時間をかけて書いているうちに、とても面白く
「うつろ舟」を読み終えた。いずれまた紹介したい。