年が明け早くも2ヶ月が過ぎた。11月はじめから忙しく出かけていたので、気持ちに疲れが溜まっているようだ。のんびりしたいのだけど、それも無理だと分かっていて、なんだかなあ。
澁澤龍彦とか中野美代子の未読本を並べていたのだけど、まず読み終えたのは中野美代子著「天竺まで何マイル?」。著者が岩波文庫の「西遊記」の翻訳を終えて昂揚していたことを窺わせる、楽しい随想。澁澤龍彦を読む楽しみが欧州に根ざした博覧強記ならば、中野美代子はユーラシアのそれ。中国から大陸の奥深くへと指向したものだ。智の�bが細部に宿るならば、小さな穴をくぐって時空の彼方へ連れて行かれるような香り立つ文章。西欧からみて極東に位置する我々のオリエンタリズムって何だろう、と思いながら、この手の本を読むのだけど。まあ理屈抜きに「もう見ることができない古の東洋」への無邪気な憧憬は楽しい。
別に遠くへ行かなくても、遠くに気持ちを持っていくことはできるのだ。
19世紀の欧州、産業化がはじまった西欧に対置させた中国への憧憬が、ボードレールの「悪の華」より引用されて語られている:
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中国人は時刻を猫の目の中に見るという。 ある日、宣教師が南京の郊外を散策していた折、時計を忘れてきたことに気がつき、一人の小さな男の子に今何時なのかを尋ねた。
天の帝国の少年は、まず躊躇した。それから考えを変えて、こう答えた。「いま言いますね。」それからすぐに彼が再びやってくると、両腕にとてもおおきな猫を抱えていた。そして人が言うように、彼はその猫の目の白眼のところに時間を見て、躊躇いなくこう言い切った。「まだ正午にはなっていません。」これは事実であった。
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この本のなかの話題の一つに唐代の中国で流行った東方教会(ネストリウス派)のキリスト教、景教と称する。その隆盛の様子を記載した碑文が17世紀に長安で発見されたという。有名な碑文。
これが何故か高野山にイミテーションが建立されている。いつだったか見かけて驚いた。まったく意図不明ではあるのだけど。インターネットの凄さを改めて実感したのは、その由来を知ることができたこと。何でも、唐で学んだ弘法大師が高野山に景教を持ち帰った、という説を唱えた英国人ゴードン夫人が亡くなられたとき建立したとのこと。大正から昭和にかけての話し。
この本を読んでから、中国のことが気になっていて、少し歴史書を読み始めているのだけど、そのことはまた今度。