K’s Jazz Days

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ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

森田芳光:それから(1985)機内でみた映画だけど


 少し前に森田芳光監督の訃報を受け取ったとき、擬製の「同世代感」を感じ、なんとはない喪失感を感じた。擬製という意味は、彼は10ほど年上で、同世代ではないから。ただ何となく同じ時代を生きた感覚があるという意味。多分、村上春樹坂本龍一矢野顕子などなど、高校生後半から大学生の頃にデビューした彼らに感じる感覚なのだろう。

 ボクは映画ファンでなく、嫌いじゃないから気持ちに余裕があるときに見に行くような付き合い方。この10年は飛行機の中で一番沢山見ている。今回の長距離フライトでは4本見た。自分でも満足のいくセレクトで久々に充実した。それから、はその一つ。森田監督の逝去に伴う企画だろう。

 ボクたちの世代から、明治・大正の時代というのは案外身近で、可視化できるような感覚がある。それは祖父母が生きた時代であり、日清戦争の頃に生まれた祖父が日露戦役から続く戦争について語るのを聴いたことがあるから。それは抽象的な後知恵の批評でなく、まさに時代を生きた人の話。近年、あの時代の抽象化が進み、自虐的あるいは自慢的に語る極端な論調が増えたのは、彼らが亡くなってから20年という時代の流れだろう。なにか不自然なものを感じてしまう。否定とか肯定とかできない、歴史の事実だけが存在しているのだから。

 そのような、ある時代に対する素直な憧憬、がボクにはあって、森田監督にもあったことが分かって嬉しかった、という単純な感想が「それから」。鈴木清順のような「旧制高校」世代が体得的に分かっていた筈の時代の空気が、もはや伝達的にしか分かり得ない世代という意味では、まさに同世代があの時代に抱く距離感ではなかろうか。その距離感が感覚としての甘美さをより強く求めている、ことが良く分かるのだ。とにかく溶けるように甘い映像。ときとして、その甘さへの希求が滑ってしまう絵(幾つかの路面電車の幻想シーン)となるのだけど、まあ許せるかな。

 この映画の4年前に公開された鈴木清順陽炎座」との類似性は、同じような意味で「微笑ましく」感じてしまう。世間のなかでの松田優作の立ち位置、松田優作から見た中村嘉葎雄の距離感や在り方が瓜二つ。また映像美への底なしの追求。ボクは直球のあこがれ(respectというコトバが近い)、を感じたのだけどどうだろうか。(ボクは映画のことは何も知らないので、クロウトの方に怒られるかもしれないのだけど)

 なぜか三島由紀夫の春の海を読み返したくなった。ノスタルジイに浸る快楽、という意味で。