K’s Jazz Days

K’s Jazz Days

ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

情熱のピアニズム:奏者の音は聴くモノであって見るモノではない

 34年前にジャズを聴きはじめた。そのころのジャズスターはハービー・ハンコックチック・コリアであり、キース・ジャレットでありウェザー・リポート。既にキャリアが10〜20年級のスター。そんな時分、同世代の新人、それもフランスのピアニストが脚光を浴びた。チャールズ・ロイドの再起が報じられ、それを促した若いピアニスト、それも難病を患う小さな男。ロイドに抱き上げられた姿は印象的だった。当時のスィング・ジャーナル誌の報道。モントルーだったか。程なく、ロイドのライブ(Elektra盤)やデビュー作「Michel Petrucciani」(赤いジャケットのOWL盤)が流通し、その粒だって強くドライヴする美音に驚愕したものだ。それに、同時代を共有する奏者のような感覚があって、とても身近に感じていた。だから、その早い死は残念だった。

 その彼の映画が公開されると聞いて、とても楽しみにしていた。そして今夜、観た。

 一言でいうとミシェル・ペトルチアーニの伝記のような映画。過去、ブルース・ウェーバーチェット・ベイカー(Let's get lost)やクリント・イーストウッドセロニアス・モンク(Straight no chaser)やチャーリー・パーカー(Bird)なんかがあったけど、比べてどうも印象が薄い。

 この間のグールドの映画でも感じたのだけど、気を引く(あるいは惹く)性癖や彼の場合は難病による容姿に焦点を当て、人間としての光や闇を見せるようなものになっていない。要は女好きで、アレも上手、なんてことを歴代の彼女が語る映画に過ぎなかった。チェット・ベイカーの映画も切り口はそうだったが、映像美と被写体として彼の魅力・無頼、が全てを救っていたのだけど。

 改めて音楽は音楽であって、奏者そのものへの関心と関係ないことを再確認した。奏者の音は聴くモノであって見るモノではない、と思った。

 話には聴いていたロイド再起(キースとのバンドが解散してから10年近くカルフォルニアに隠遁していた)あたりのくだりが、ロイド自身の演奏含めてよかったこと、彼を同い年だと思っていたけど、2つ年下であったこと、が見てよかったこと。

 間近に彼の音楽を感じることができなかった(過大な期待なのだけど)ことが失望感。途中で眠たくなった。