K’s Jazz Days

K’s Jazz Days

ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

五十嵐一生@もっきりや 音を聴くということ


 もっきりやに出かける前、近くのタイ飯屋でトム・カー・ガイなんかを食べながら知人と喋っていた。ふっと思い出すことがあって、ボクの知人の話をした。とても優秀な男で、N高からT大、そしてT大の教員に。今は地方有名大の教授。そしてT大の体育会系クラブの主将でがっしりとした体躯。その彼と呑んでいたときに、ふっと云った。どうも悲しみという感情がないらしい、と。ぽっかり穴が開いたように生まれたときから、そんな感情はなかった、と。もっとも、それで困ったことはないらしいのだけど。元来、分からない感情だからね。だからヒトの能力とか幸せって、そんなに総量のバラツキがなくて、何か特異に発達すると、何かが欠落する。優れたヒトが往々にしてバランスが崩れている、って、よくあることだとね。

 ジャズを聴いていて、素晴らしい奏者にも多分にそんなコトがあるような気がする。ブルース・ウェーバーの撮ったチェット・ベイカーの映画Let's get lostを見ていると、あの壊れた男とあの深みのある感情の細かな襞を感じさせる音が結びつかない。メフィストフェレスにヒトの魂を売って、あの音を手に入れたように思わせる。悲しいというコトを知らない優秀な男、の裏返しのような人生。

 もっきり屋で五十嵐一生の音を聴きながら、数時間前のタイ料理屋での会話を思い出していた。チェットでもない、マイルスでもない、ボクの貧弱な語彙ではコトバにできない寡黙であり饒舌で、乾いていて湿潤な唄のような金管のオトを聴きながら。コノヒトハ、ナニカヲ ステテ イルノダロウカ?そんなことを考えさせるようなextremeな音の体験だった。木偶のように主の意図を汲んで、あるいは主の思惑を超えて深く鳴る金管。弦二本の音の組み立ても素晴らしく、編成はかつてのチェット・ベイカー・トリオ(欧州でのダク・レイニー、ニルス・ペデルセンとの)と同じなのだけど、弦の作る音の深度がずっと深い。その弦の音の深さを広げていくようなトランペットの音の差し込み。ジャズとかそんな音のプラットフォームを感じさせない、唄う奏者たち。珍奇なことをやってはいないのだけど、確かに21世紀の今の音を聴いている感触が残った。

 彼はボクの呑み友達の友達、ということもあって、そのあと深夜まで呑んでいた。

 このメンバーでCD出してよ、って云ったら、演った音は消えていって、もう帰ってこない、一期一会のようなもんだ。そのことを強く意識して吹いていると。なんだか、ドルフィーの例のヴァースみたいだね、って呑みながらの話。音を聴くということ、ってそうだよね。

 ジャズ・ファンじゃないヒトが来てくれて、楽しんでくれたことがとても嬉しい、とか。最後は随分気持ちよくなって、手を振って分かれたが、また金沢来る気になったかな。

4月27日(土) 金沢柿木畠 もっきりや:五十嵐一生(tp)、吉田智(g)、小泉"P"克人(b)