K’s Jazz Days

K’s Jazz Days

ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

副島輝人:日本フリージャズ史(2002)、高柳昌行:汎音楽論集(2006) 日本の音の過去、行方

 少し、気持ちにフリー・ジャズからimprovised musicの方向へのvectorが射し込まれた。ほぼ30年振り。

 ハタチ前後の頃に、ライヴで聴いた奏者達から、点景のように空間に音を散りばめ、そこに非日常的なハレの空間のようなものを構築する様のおもしろさ、を知らされたような感覚があった。そのような音楽は、奏者とともに空間を共有することが理解(というより体感)への近道で、録音物から「感覚・感情への経路」を開くのは難しい。20代のお仕舞いの頃に聴いたペーター・ブレッツマンのライヴを最後に、「あの手」は聴いていなかったので、それを面白がるための「感覚・感情への経路」は閉じてしまった、ようだ。随分、と聴いていなかった。

 昨年末、もっきりやで聴いた「IPA」(北欧のオーネット路線あたりのFree jazz)で蟲のようなものが蠢きだし、春先エヴァン・パーカーで「感覚・感情への経路」が開通。愉しめるようになった。

 昔と違うのは聴き方で、再生装置が良くなっているので、楽器そのものの音色に気持ちがいき、その照り、のようなものを舐めるような愉しみ、を明瞭に感じる。だから、レコードで聴く快感は、特にimprovised musicでは強いかもしれない。クラシックを聴くようになった余録、である。

 さてそうなると、空白期間の音が気になるし、もっと知りたい、要求が強まる。また、昔から強い関心があったこと、1970年前後から何故急速に日本のジャズとしてのアイデンティティが確立したのか、ということも気になりだした。

 そんな関心のなかで、首記の本を購入。かつてSJ誌にメルスの音楽祭報告を執筆されていた副島さんの本から。これが実に面白い。音楽が人の営みである以上、人の思惟や行動、さらにこれらが複数の人の間で交叉し、音楽として止揚されていく。その過程、のようなもののドキュメンタリーであって、演繹的な歴史観の披露、ではないのだ。まさに知りたかった1970年頃の奏者達の営みに焦点が当てられている。

 そのなかで、高柳昌行の存在の大きさ、を知った。という訳で彼の本を。これも辛辣な音楽評であり、オブラートに包まない、刃先が光る言説の強度を存分に楽しむことができる。なかなか、難しい人だったのだなあ、ということも知った。ディスク・レビューも実に面白い。100%頷けるものではないけど。

 前衛に立ち音を解体するための基礎的な技量への探究心の強さ、その方法論への精神性の高さ、への希求はよく分かった。しかし、ジャズというものの在り方の多様性に対し、眼を背けているように感じられる部分があって、その矜持のようなものが、そもそも解体すべき対象ではないのか、という自己矛盾を孕んでいるように思えてならない。伝統意識の強い職人的な奏者としての一面(肉体)と、新たな音楽を希求するための精神性の高さ(精神)の乖離、のようなものが、この人の魅力かもしれない、と思った。実は、まだ、ほとんど聴いていない人なので、間違っているかもしれないけど。

 今は21世紀。もう彼ら二人は世になく、また富樫、高木、吉沢と屍が累々である。インターネットには、富樫さんの「事故」が仔細に書かれる時代である。遠くに来たなあ、との思いと同時に、彼らの作った音への好奇心の躍動に、心地よさを感じている、のである。