穂積生萩「私の折口信夫」(1978年,講談社) 生や性よりも深く流れるもの
昨年くらいから,なんとも下世話と云えなくもない本が近寄ってくる.自分の意思で買っている,とも言えるのだが,大半が古書店での出会いなので,本が近寄ってくる,と云ってもよいような気がする.中原中也の長谷川泰子著「ゆきてかへらぬ」(中也が立命館時代に同棲,その後,小林秀雄のもとへ),辻潤の小島キヨ「辻潤への愛:小島キヨの生涯(倉橋健一著)」 (辻潤が伊藤野枝に逃げられた後の愛人),稲垣足穂の篠原(稲垣)志代著「夫 稲垣足穂」(尼僧から還俗して足穂の妻に)などなど.なんでだろね.よく分からないけど.
そんなカテゴリの本なのだけど異色の一冊は,穂積生萩「私の折口信夫」.男色家とも云われ生涯独身であった折口信夫の「ただひとりの女弟子」と云われる穂積が,折口との出会いから死そして死後に到るまでの交感を描いている.圧巻,ともいえる叙述内容は「徹底した私の折口信夫」である.事実とか客観とか関係がなく,女である穂積のなかでの折口信夫が生々しく描かれ,とてもエロティックなのである.穂積と折口は現実の肉と肉が交わるような関係でなく,また折口から一通の書簡も受け取っていない.穂積が女弟子として付き合ったときの折口の所作,表情,会話から,彼女の御霊・肉体を通じて,断定的に折口信夫の心を再現してみせるのである.そこには,生や性よりも深く流れるものを強く感じさせる.時として,吐き気を催すほど濃厚な表現で.これが著者固有の心性なのか,女性の奥底に潜む心性なのか,オトコのボクには窺い知れない.
あとは,下手な講釈よりも,本書からいくつかの文章を.これらは気の利いた文章を抜粋した訳ではない.この本全体がこれらのような文章で埋め尽くされているのである!
・私と折口信夫の関係は、師弟でありながら、私は、先生の男性をよびさまし、意識させる役割をより多く持っていたと言えそうだ。(あとがき)
・「私の折口信夫」を書きながら、私は何回か折口信夫の囁きの声をきいた。「どうせ書くなら、こう書きなさい」
すると私は今まで考えもしなかったことに思い当たり、先生の真意を知る事が出来た。(あとがき)
・老境に入られたよるべない独身の先生が、「親孝行娘」をもった同年配の男(注:著者の父のこと)を羨望するので、私は面白がって「親孝行」を見せつけて、先生をいじめた。先生はいじめられたがりやなので、私を「親孝行」だと言っては小さくちぢこまった。(第一章)
・ある夜は、先生とお風呂場に一緒にいると、先生が右腕だけを残して消えてしまった夢を見続けた。(注:死後の話)(第七章)
・お墓にさわると、あったかかった。人肌のようにあたたかかった。そのあたたかさが、静かに静かに私の体の中にしみとおって流れて来た。先生のお体のぬくみであった。(第七章)
・お墓に触っていると、いつの間にか私は先生と二人になっていた。昔、先生の書斎で二人で黙っていたときのように、二人の呼吸が次第に一つになっていくような、先生が私になったような、私が先生になったような一種異様な気持ちになった。(第七章)
あくまで穂積生萩の心象風景のなかでの「折口信夫」である,という点では,すべて事実なのである.その定義から全く逸脱していない叙述の力とその凄まじい内容に,ボクは暫く悪酔いしてしまったのである.BLOGに書こうと思っていたが,読了後,酔がさめるまで随分とかかってしまった.だけど,このBLOGを書いていたら,やっぱり気分が悪くなってきて,酔が戻ったような感覚になった.なんとまあ,キツイ本やな.