21世紀の今、忘れ去られる人の筈だ。既に関東大震災から100年の時が流れようとしている。震災後の混乱のなか惨殺された多くの労働者や朝鮮人に加え、辻まことの母、伊藤野枝もまた、大杉栄らとともに憲兵に惨殺されてから1世紀なのだ。事実すら風化させようとする夢想家が多い現実には戦慄を覚える。
伊藤野枝や辻潤への関心から、その存在に光が当たるとともに、何者でもなく、ただ山の中を放浪し画文を描く男のイメージは、辻の友人達の筆から作られていった。その友人達も多くはこの世を去り、もう本人が最後の著作に書いたように、辻まことは過ぎって行った人に違いないのだ。
10年以上前だろうか、西木正明「夢幻の山旅」が出版され、私生活の側面がゴシップ的に暴かれた。読後感も余り良くないものだった。
私が辻まことを知ったのは、もうこの世を去った後。何冊かの本に魅了された。今回、私よりもさらに若い世代である著者が、何を書くのだろうか、期待はなかった。
しかし、海外在住の腹違い彼の娘達(辻潤/伊藤野枝の孫、辻潤/伊藤野枝/武林無想庵の孫)までにインタビューし、辻まことが何者であったのか、そのような単純な問いに応えようとしている。辻まことの著作を少し読むと気になる、彼の周辺の人物に対する丁寧な調査は、図らずも大戦前のモボ・モガの時代の空気を見事に描いている、ように思える。
そのような細部がこの本の魅力。昭和初期の広告代理店オリオン社の記述のなかに、ダダイストの団体マヴォのことが書いてあったり(昔、ノラクロの田河水泡が「私の履歴書」で触れていた)、竹久夢二の息子である竹久不二彦のこともしっかりと書いている。興味深く読むことができた。
辻まことという不思議で面白い人物に対する適切な距離感。その帰結として彼の世渡りの姿も浮かび上がらせている。何者でもない、ということを維持するのも世知に長けていないとイケないのだ。そんな等身大の描写が、本当の意味で何者でもなかった、無に帰っていった辻まことへのレクイエムではないのか、そんな本だった。
・山本夏彦の武林イヴォンヌ(無想庵の娘、辻の最初の妻)への想いが痛々しい。
・辻まことの最後が肝臓癌に耐えられず、縊死であったことを書いた本。著者の想像のプラスアルファが下世話な本。