金沢・寺町台地の上で過ごす日々:困っていること
昨日浅い眠りから覚めると、随分遅くなった夜明けの頃だった。自宅の前から曇った空をぼんやりみていた。医王山の方角から明るくなってくると、大きな木の影が浮かび上がってきた。虚ろな光の具合が秋そのものだ。夏のすべてが終わっていない感覚だから、困っている。
長年、夢の記憶が不確かで、その余韻に浸るようなことはなかった。それが戻ってきたと思った時から、あたりまえのように夢の余韻が残っている。 かつて身近な人達の夢をみることは希で、ボクの心根の冷たさが嫌だった。今は身近な人が度々夢に出てくる。だけど、その夢の余韻の冷たさに、困っている。
季節の移ろいのなか、取り残されたような感覚に囚われている。昼夜、殆どの時間を独りで過ごしていると、考えが閉路にはいり、いつまでも同じ路を歩いているような錯覚に陥る。だから、ひとつのことが気になると偏執的に気になりだし、それはボクが愚鈍たることを証している。櫻、夜半の月、梅雨の候の煙る大気、明け方の木星が気になり、挙げ句に疲れ果てるのだから、困っている。
ひとつひとつのコトに対して、とかく過剰な想いが膨らんで季節の終わりまでに消尽させることが出来ないのだ。困ったことだ。だから週末は再び白山山系を訪れて、過剰感を使い果たすよう、登高距離を伸ばしに伸ばして、ボクのなかの夏を終わらせたいのだ。