K’s Jazz Days

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ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

金澤生活での時間の遠近感・生きいそぐ・死にいそぐ


自宅裏の夕焼けを眺めていた。
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金澤生活も1年と1ヶ月になった。金澤の日常はとてもゆっくり流れていく。淡い夕焼けのグラデーションが変わっていく様を眺めて過ごす時間が随分ながく感じた。

ボクの時計の速さは金澤に引越しても、ゆっくりとしか変わっていかない。だから、この地で暮らすなかで、ボクの時間の遠近感が奇妙なことになっているように思えてならない。金澤に引っ越してきた頃のことが、随分,昔のような気がする。金澤の時間がゆっくり流れているから。そのなかでボクは今まで通りの早さで物事を詰め込んでいくから、ひとつひとつの出来事の配列がどんどん過去に去っていく。近景での時間の流れの早さと、遠景での時間の遅さ,が奇妙な対比になっている。たおやかな時間のなかで、ドタバタしているようなヘンな感覚。時間の遠近感が狂っている。

金沢・泉野出町「近所のバー」での会話のなかで、生きいそぐ、死にいそぐ、というコトバが出てきた。ボクの山や音に入れ込んでいる姿、だそうだ。そんなつもりは勿論ない。生きいそぐ理由も、死にいそぐ動機もない。でも確かにドタバタしている様子がみっともないのだろうな。

暫くぼんやり考えている。「生きいそぐ」、「死にいそぐ」って何だろうか。気がついたことは、これらは概ね同じ意味。ある時期(ボクの場合、45歳の頃にその時期があった)を境に、「生きいそぐような」感覚から「死にいそぐような」感覚に切換わるのではなかろうか。確かに、仕事に随分入れ込んで「生きいそいだり」、「死にいそいだり」するような感覚で生きていたように思う。
かつて、そのような日々のなかで、いつも思い出していた言葉はランダ。佐竹昭広「古語雑談」(岩波新書)のなかで触れられている。ランダは『懶惰:明日ノ所作ヲ今日成ス』で、先取りの行動を意味する。ケダイ『懈怠:今日ノ所作ヲ明日成ス』という怠け者の意と同じく、ランダも怠け者の意とのこと。なぜならば、ともに今日を放棄する意味で同等だからだそうだ。生きいそぐ、死にいそぐことは、まさに懶惰。明日ノ所作ヲ今日成ス。今日という日を放棄した生き方。随分と『懶惰』な生き方をしていたような気がする。その結果として、前職では他人より随分早回しの生き方となって、同僚よりも10年くらい早く第二の人生となった。つまりランダな生活、生き急ぎ・死に急ぐ生き方の帰着が金澤生活なのだから、それはそれで悪くないのかも知れない。

だけど、今日を放棄した日々の累算である今。何か大きな穴が頭の中にあいていて、大切な記憶だとか、感情だとかを落としているような気がしてならない。そんなことをツラツラ考えている。だから、穴を埋めるように走ってみたり、山を駆け巡ってみたり、音を浴びるように聴いたり、酒を呑んだりしているのだろうな。だから、結局のところ形を変えたランダな日々なのかもしれない。

明日もこんな空が広がるといいなあ。