K’s Jazz Days

K’s Jazz Days

ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

渋谷毅,川端民生:蝶々在中

渋谷毅,川端民生:蝶々在中(1998,Carco)
   1. 蝶々(てふてふ) (Takeshi Shibuya)
   2. が、とまった (Takeshi Shibuya)
   3. There Will Never Be Another You(Harry Warren)
   4. You Don’t Know What Love Is(Gene de Paul)
   5. Lover Man(Roger “Ram” Ramirez, Jimmy Sherman)
   6. Body And Soul(Jonny Green)
   7. Misterioso (Thelonious Monk)
   8. You Don’t Know What Love Is(Gene de Paul)
   9. 無題(Takeshi Shibuya)
渋谷毅(p),川端民生(b)
中ノ峠ミュージック・ラボ(小松),小松市民センター
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先日、知人から頂いたアルバム。手元に届いた小さな封筒のようなジャケットのなかの「蝶々在中」。得体の知れぬ蠱惑に打たれるような感覚。何だろう。

どう書き始めようか数日の間、悩んでいた。音の明るさ、優しい温もり、スケールの大きさ、そして題名の蝶々在中から、真っ先に安西冬衛の一行詩「春」を咄嗟に想い出したのだ。

    てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

海に隔てられた日本から軽やかに飛び立つ蝶。その先に広がる大陸への夢想。昭和初期の詩人のイマジネーションに対し、時間を隔てる程にその甘味が増すような、甘露な古酒が如く恍惚が沸き上がる。そんなコトバのイメエジと、このアルバムを聴いたときの甘い感覚が混じり合ったのだ。

けど、そんな上っ面のコトバの話じゃないとこはすぐに気がついた。手元に届いた封筒を開くとあの時代の空気が流れ始めたのだ。30年前のあの頃のジャズ。ボクが「直接体験することができた音」、「体験できなくて記録媒体から匂ひ立つ音」、そんな音が攻めぎあって、甘くも厳しいノスタルジイを喚起するのだ。だから何回も何回も聴いて、コトバという論理構造にどうはめ込むか懊悩していたように思う。ちょっと大袈裟だけど。蝶々在中。そして封筒を開くと

  てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

1970年代の「日本のジャズ」の空気があった。別に邦楽の要素を入れたりしている訳ではない。だけど音から伝わる情感、感情の奥深くを刺激する感触が「日本の音楽そのもの」なのだ。何が日本か分からない。ジャズの語法はしっかり守っているのだから。でも情緒的な何かがある。だからボクは日野皓正、山下洋輔、佐藤允彦、富樫雅彦、菊地雅章あるいは山本剛のような奏者のアルバムやライヴを随分聴いた。親父は「あんなのジャズ」じゃないと云った。要は、あの「何か」が好みに合うか、合わないか、だったのだ。その「何か」が一杯詰まった封筒を開くと

  てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた。

それがこのアルバムで感じる「直接体験することができた音」の雰囲気。でもボクには「体験できなくて記録媒体から匂ひ立つ音」もある。ボクは30年前には渋谷毅を知らなかった。アルバムが出ていなかったのではないか。悔しいほど後悔していて、その悔しさが「見てもいないものへのノスタルジイ」(あるいは手の届かぬものへの甘美な想い)となっているのは、あの時代のもうひとつのジャズ・シーン、浅川マキとその周辺。ボクはとてもガキだったので、浅川マキが京都へやってくる街宣のチラシを見て嫌悪感すら感じていたのだ。だから結局のところ一回も聴いていない。所謂正統派のジャズ・ファンだったわけだ。だから、何年か前に近藤等則目当てで買った浅川マキのDVDを聴いて、すっかりがっかりしてしまったのだ。アノ時代のアノ音を聴く感性を持ちあわせていなかったことに。とりわけ渋谷毅のピアノが走りだす時の格好良さときたら。そして、日本のジャズの味って、実はこんなところでつけられていたことに今頃気がついた。

川端民生もその頃のライヴで随分聴いたような気がするが、しっかりサポートするタイプベースで高音でチャラチャラ弾くタイプでないので、逆に印象は強くなかった。今、このアルバムで聴くとそんな朴訥とも云えるベースの味をしっかり味わえる。彼のベース故にピアノの美しさが薫り立っている。

それにしても後半のライヴの情感は気持ちをさらっていってしまう。3曲のスタンダードBody And Soul、Misterioso、 You Don’t Know What Love Isが曲の外観を保ったままに、原曲より深い情感を湛えているように思える。そんなピアノにベースが隙間なく溶け込んでいく。そして体験したことのないような感覚が最後のピアノ・ソロ「無題」で押し寄せてきた。なんか30年くらい前に落っことしたモノを眼の前に差し出されたような。いったい何だろう、そんなモノは。

予期せずそのような素晴らしい日本の音を知ることが出来た年の瀬、そして浅川マキさんが亡くなってもうすぐ2年だなあ、と聴かずに終わった彼女のことをぼんやりと考えているのだ。