K’s Jazz Days

K’s Jazz Days

ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

浅川マキ:ちょっと長い関係のブルース(1985) 新しいカートリッジで聴く

 LPレコード終末期、1980年代半ば、の録音は甘い印象がある。溶けるような甘さ、のように感じる。当時のキング・レコードの日本録音Paddle Wheelなんか聴くと、特にそう思う。

 このレコードは東芝、吉野金次の録音。スタジオでの録音なのだけど、程よい残響感がまるで狭いライヴ・ハウスのような音の心象を造り出す。甘い、溶けそうに甘い、録音なのだ。

 渋谷毅のピアノには、まったく時制がない。ただ夜を感じさせるだけで、少しだけ過去を思い起こさせるだけ。だから、この浅川マキとの対話が、あたかも昨日、近場のバーで聴いたような錯覚を起こさせるのだ。だから録音の甘さと相まって、眼前の光景のような錯覚を記憶の底に投げ入れる、ような時間に酔ってしまう。

 新しいカートリッジで、どのレコード盤を聴こうか、そんなことを考える時間が愉しい。

 

[2013-10-05記事] 30年近く閉じられていた封を切る

 今日も忙しい。誰もいない仕事場で息抜き。

 1年くらい前にCDで入手して、気に入ったアルバム。既に一回、記事にしている

 なにかアングラとか、ブートレグとか、スキャンダルとか、そんな「暗黒的キャッチ」と彼女の唄の実相の乖離が甚だしいように思える。まあ、世間とか時流から僅かに距離を置いて、斜めから自分の音を世の中に流し込むようなヒトだったように思う。

 これはそんな彼女の音が等身大で作られたアルバムの趣。渋谷毅の暖かいピアノの音に寄り添った、「ジャズ」の世界。あくまで彼女のジャズであって、所謂ジャスじゃないから、「ジャズ」とした。日本の歌謡のようなものを、ジャズのフォーマットに乗せたもの、である。そして、その歌謡曲のようなものが浅川マキそのもので、彼女の在り方がJazzyだから立派なジャズになっている、というような倒錯した心象で聴いている。

 生前の彼女が云うように、確かにCDとレコードでは醸し出される音場がかなり異なる。一見瑕疵がなくスッキリしているのだけど深みとか闇が作るコントラストが弱い、だから明るさも足りない。そう、今の世の中のような音。レコードの場合、針のトレースから漏れる雰囲気そのものに何かしらマジカルな魅力があり、囚われる。彼女がCDでのアルバムの出版を嫌がった、のもよくわかる。

 ということもあり、三周回くらい遅れて彼女を聴く事になったボクは三周回くらい遅れてLPレコードを集めている。1980年代のはじままでのアルバムはすんなり入手したけれども、その後が難しい。そもそも、LPレコードでいつまで出版したのだろうか?

 1年近くオークションを見張って、ようやく、このアルバムを入手した。まだビニールの封が切られていない見本盤。誰にも聴かれることもなく、どこかの暗闇で放置されていたのだろうか。何となく彼女のアルバムらしく感じて少し可笑しい。そしてボクがレスキューした訳だ。

 30年近く閉じられていた封を切る。そいて、未だ潤いのあるしっとりとしたレコード盤をターン・テーブルに載せた。針があのマジカルな無音を放ち、アルバムがはじまる。その愉悦は、まさに彼女が伝えたかったオトなのだろう、と思った。