Sviatoslav Richter: The master volume 3 (Philips=>Decca)
Scriabin(1993)
1. Poeme-Nocturne, Op. 61
2. Two Dances, Op. 73 - No. 1 Guirlandes
3. Two Dances, Op. 73 - No. 2 Flammes Sombres
4. Vers La Flamme, Op. 72
5. Fantasy, Op. 28
Prokofiev (1993)
1. Sonata No. 4, Op. 29 "From Old Notebooks"
2. Sonata No. 6 In A Major, Op. 82
3. Legende, Op. 12 No. 6
4. Visions fugitives, Op.22, No.3
5. Four Pieces, Op.32, No.1
6. Pieces from "Cinderella"
Shostakovich (1963)
1. Preludes and Fugues, Op.87
今週聴いた音楽は充実、と云うにはコトバがとても足りない。大気が冬の香りを流し始めてから、ボクの感覚も少し変わったようで新しいオトが気持よく入っていく。本業以外のいろいろなことに感度を落として弱引き籠もり生活をしているので、かなり気持ちが乾いている。だからオトの入口が緩くなっているのかな、と思う。
昨日は夜半過ぎ、2時くらいまで働いてから帰った。仕事場では昨日届いたリヒテルを聴き終え、ショスタコーヴィチ自身の自演を聴きながら働いているのか、放心しているのか状態。と云っても、仕事が立て込んでいて、仕事場でややこしいシミュレータを取り扱い説明書をみながら動かしている。頭を使うよう云うより、他人が勝手に決めたプロトコルに押し倒されている感じ。だから、断続的にオトを聴きながらじゃないと、やってられない。ふう。
先日、リヒテルの「前奏曲とフーガ」のことを書いたが、超初心者の弱みで曲が良さが勝っているのか、演奏者の良さが勝っているのか良くわからない。という訳で早速,幾つかの演奏を早々に注文した。 1987年のNikolayevaによる全曲集と1951年から52年にかけてのショスタコーヴィチ自身の演奏、リヒテルの「ロシア作曲家ピアノ作品集」。それが昨日届いた。
Nikolayevaはまだ聴いていないのだけど、あとの2アルバム、CD5枚は神経あるいは感情の基層に直接触れてくるような演奏。
リヒテルのアルバムについては、朝からの仕事を中断し再び仕事場に戻る途中にクルマのなかで聴きはじめた。冒頭はScriabinの曲から。低く垂れ込めた雲のもと、蒼氷が覗く荒れた路を独りで歩いているような心象。その行き先はボクにも分からない。帰ることができるのかも分からない。なにかと繋がっていた糸が切れて、独り、のなかにゆっくりと遊泳していくような不安な気持ちが広がる。クルマを運転していたボクは雨模様のなか、途方に暮れたような気持ちになってしまった。だからオトは不用意に鳴らすものじゃない。
Scriabinはホロヴィッツの演奏で聴いていて、気持ちにとても合う感じだった。リヒテルの演奏はホロヴィッツのような常にオトが流れるような流麗さは全く感じない。ただ、ゴツゴツとしたピアノのトーンがScriabinのヒトの意識の基層に飛び込むような曲調と良く合って、強迫的な強さで迫ってくる感じ。強い。演奏のなかで場の大気の屈折率が変わるような緊張感の変位が何回かあって、その強い微係数に酔ってしまった。
それにしても、Scriabin=>Prokofiev=>Shostakovich(LPと同じ)と聴き進むのはとても気持ちがよくて、このリヒテルのアルバムは随分聴くことになりそうな予感。Shostakovichの自作自演にもだいぶんヤラレタので、これは後日に。
一週間に何回もこんな体験ができる、この金澤の、この季節の、この空気感がとても嬉しくなっている。