K’s Jazz Days

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ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

Vladimir Horowitz: 25th Anniversary of his American Debut (1953) 音の暴力


 久しぶりに聴いた。2年振りくらいかな。最近は古いジャズが多くなっているので、クラシックを聴くことが少ない。旅行中はiPODに音源を詰めて、宿ではアクティブ・スピーカ、移動中はヘッドフォンで聴いている。ヘッドフォンで聴く音って慣れていないのだけど、案外良い音。なかなか楽しめる。バイラークのピアノの響きに驚いたりした。

 このホロヴィッツの演奏はiPODに入れて久しい。が、殆ど聴かない。旅先の長い眠りのなかで滅多にみない夢をみて、その夢の中でみたことの既視感がどこからやってきたのか、あてのない記憶の彷徨を続けているような曖昧な時間。そんなときに、ふっと聴いた。聴いてから、しまった、と思ったが、止められない。

 音の暴力、の世界。この暴力は「強制力が強い力」ということで、殴るとか蹴るような直接的な力の行使というより、旧政権党が自衛隊に対して使って(本来、間違いじゃないが、TPOが間違い)話題になった使い方。音が音として作られ、その圧倒的な存在感にさらわれてしまい、盲目のうちにアチコチに連れて行かれるような感覚がある。そのような音の暴力に対して、聴き手は抗うのではなく、むしろくびきの下で悦びを感じるような世界。圧倒的され、陶酔する。優しさとか、癒やしのような世界と対極なのだけど、その歓喜の強度は観客の熱狂からも伝わる。スクリャービンのマジカルで破壊的な音に歓声が出る、こと自体がマジカルだ。

 ヘッドフォンでこの演奏を聴いたのだけど、同じカーネギーホールでの後年のコンサート(1965年、1966年)と比べると、とても厳しい音の世界のように思える。鋼のような音の洪水が破綻しているようで、その寸前で抑えられ、その寸止めのような疾走感が桁違いの快感を与える。奏者の感情は伝わらず、ただ冷静に暴力装置としての音を構築している。観客の反応を測定しながら弾くような冷たさ。自己陶酔のようなヴェクターを感じさせない。ドビュシーの曲もあのような音世界に投影されると、とても冷たい感触で、不思議な感じがする。そして最後のプロコフィエフソナタ7番で音の暴力に打ちのめされる感覚。

 うっかり旅先でヘッドフォーンで聴き始めたら、演奏の間、違った空間に連行された。うっかり聴くモノじゃない、と改めて思った。

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Vladimir Horowitz: 25th Anniversary of his American Debut (1953)
   1-4. Schubert: Piano Sonata in B Flat Major D. 960
      5. Chopin: Nocturne in E Minor Op. 72;
      6. Chopin: Scherzo No. 1 in B Minor Op. 20
      7. Scriabin: Sonata No. 9 in one movement op. 69;
      8. Scriabin: Etudes Op. 8 no. 7 & Op. 42 no. 5
      9. Liszt: Hungarian Rhapsody No. 2
    10. Debussy: Serenade for the Doll (from the Children's Corner)
    11. Chopin: Waltz No. 3 in A minor Op. 34 No. 2
    12. Prokofiev: Sonata No. 7 Op. 83 (IV: Precipitato).