今日、北陸が梅雨入りしたらしい。なんとなく勘違いしていて、梅雨の日々が続いていると思っていたのだけど、道理で雨があまり降っていなかった。
今日は仕事で三河のほうに出かけたのだけど、晴れた北陸から幾つかの隧道をくぐって太平洋側に出ると雨。陰と陽の関係が、この季節に限っては完全に逆転しているようにみえるので可笑しい。だから名古屋を過ぎたあたりでは、列車の窓に当たる雨が流れていくのを、ぼおっと見ていた。
仕事を終え金澤に帰り着いたのは夜半前。列車のなかでの記憶は殆どなかった。なんだか妙に疲れていて眠りこけていた。だからプラットフォームに降り立ったとき、梅雨入りしたというのに案外と爽快だったことに驚いてしまった。暑くも・寒くも・ない、北陸らしい程よい湿潤な大気のなかに降り立つ感じ、が心地よかったのだ。と同時に、その感触がはじめてでないことに気がついた。金澤に転居して迎えたはじめての梅雨の候の頃の感触。蒸せかえるようなニセアカシアの香りが暑苦しい感触になっていた5月の頃から、6月に入るとひんやりとした感触の中で、仄かに草や花の匂いが流れてくる感触。雨の予感が少し金気を孕んだ風になって流れてくる感触。そんなことを自宅に向かうバスのなかで反芻していた。
一昨年の秋に転居してから、金澤を歩くことが愉しみだった。ふっと擦れ違う一つ一つのカタチあるものに、カタチにならないナニかを感じることがあるから。辻から辻に抜ける風、犀川の瀬の轟音、古い櫻の木、坂の上と下の繋ぎ目におわす地蔵様、時として厚くときとして薄い雲を纏った月。コトバにすることは出来ないのだけど、長い時間のなかで堆積した空気のようなもの。嬉々として、そんな感覚を楽しんだのだけど、それが随分と気持ちに負担になるものだと気がつくまでに1年ほどかかった。だから、この数ヶ月はそんな意識の下層とふれあうような感覚にフタをして、もっぱら音楽を聴いていたように思う。
バスを降りて歩いていたのだけど、なんだか懐かしい感触が蘇ってきた。見上げると満ちた月が雲から透けて見えてきた。歩いていると、顔を出したり隠したり。この季節特有の夜風も流れている。ゆっくりとした時間の流れのなかで、取り残されているよな感触。繰り返し訪れる季節のなかでも、今の時分が好きだなあと改めて思っていた。だけど、あんまりそんなことを考えていると、また疲れてしまうのだろうな、とも思って困ってしまっている。最近は再び夢をみることもなくなっているのだけど、起きているに感じる夢のような感触の扱いをどうしたものだろうか。そんなときは、音を聴くことだっていらないし、酒もいらない不思議な浮遊感のなかにあるから。