山に登りたいという気持ちが募っている。とても気持ちが楽だから。山の中にいる間、山のことしか考えなくていいから。単調な身体運動の繰り返しは弱いトリップ感を喚起し、普段は感じないような感覚がまとわりついて、自分の周りの様子に対してとても敏感になることができるから。たとえ小さな山登りでも、少し違った世界に飛び込んで、違った時間を体験して帰ってくるような気持ちになれる。
だから行きたいと思ったら、どうしても行きたい昨今。早々に梅雨明した7月のおしまいに西穂高に友人達と出かける計画をした。手軽に3000m弱の岩稜で遊んでみたかったからね。暑い金沢を脱出して稜線で涼しく過ごしたかったし、よい温泉にも行きたかったし。
7月の後半になって、急に雨降りの涼しい日々に戻った。戻り梅雨、というらしい。太平洋高気圧が弱っているようで、新潟から東北に張り出す前線。西穂高へ行く日を楽しみにしていたのだけど、どうも2000m超の稜線は雨降りの日々のようだった。
無理矢理にでも山に行きたかった気持ちで考えた代案は、雨降りの日にブナの森を歩く事。石川県の山々にはブナの木が広がっている。雨の日の賑やかさは、とても楽しい。なにか眼に見えないものとの交感。五感のすべてが鋭くなって、森の中の何かと語らうような時間を過ごす事ができる筈、と思った。
そんな訳で、手軽なブナの尾根体験コースである大門山(1571m)に向かった。標高1000m程度のブナオ峠からの登りだから、急登だけど時間はかからない。
大門山には9:30頃に着いた。小雨。時折、雨脚は強くなるが気にならない。ブナの森に飛び込む期待で一杯になる。だって風もないのに、ざわめくブナの森の騒鳴。光の方向には乳白のモノトーンの世界。
森の中に雨の音はしているのだけど、樹々が登山道を覆っていて、あまり足元までは落ちてこない。ブナの木の肌は濡れて,静かに活気を醸しだしていた。
ボクがいた関西や関東の山々は植林に覆われ、貧相な杉林が多い。根元まで陽光が射さないために、草木が育たないから。ブナの豊穣さとは、ブナの木が独り占めしているのではなく、宿り木を持ったり、まわりの草木と一緒に育まれているものだ。山肌では、いまが額紫陽花の季節のようで、街で見かける花よりとても瑞々しいものだった。
期待どおりに何も考えない、考えなくてよい、まっしろな時間を愉しむ。ときどき、ブナの巨木が水を降らせてきた事を仲間は気がついていたのだろうか?
ときに雨脚が強くなって森の中の全てが濡れて、沸き立つようなひんやりした湯気のなかにいた。また、ときに雨が切れて、光が射し込むと、蜘蛛の巣の水滴が一斉に光り出す様子が面白かった。
ほんとうにあっという間の2時間。写真をとったり、草木に驚いたり、静かな気持ちで、昂ることもなく目立たない山頂に着いた。そして雨上がる。
上りの時はブナの木のざわめきしか聴こえなかったのだけど、雨が止むと、カジカや蝉や鳥たちの鳴き声が響きだした。森の主役が変わったような感じ。そして樹々の葉のうえの水滴が静かに光っているのをボクは見ていた。
同行者の声で横をみると小動物がじっとこっちを見ていた.あの青白い眼には何が結像しているのだろうか。すっかり退化して、気配でしかやりとりできないように思えたのだが。少しふざけて指を出したら、怒って反撃してきたので、声をあげてしまったけど。恥ずかしい。
まんまと狙いがあたって雨のブナの森歩きを楽しんだ。帰る頃には青空もみえて、光漲る森に息を呑んでしまった。高峰を求めて歩くのもいいのだけど、そんな賑々しい森を求めて歩く事も楽しいなあと、改めて思った。同行の仲間達にも気に入ってもらえたと思うだけどどうかな。ブナと同じくらい賑々しい雰囲気で楽しかったですよ。