山とある日、という本がある。上田哲農という画家であり、登山家の画文集。雪がある山のなかで過ごす日々や、そこでの心象を訥々と綴ったもの。山を独りで登っているときの、気持ちの移ろいのようなものが、記憶の底に残っていて、そのような本を開き、山の絵や文章を眺めていると、錆びてしまった筈の淡い記憶がただ実態もなく、山とあったその時間の薫りだけを届けてくれるような感覚に、暫し震えてしまうのだ。だから、山の本を眺めるのが好きだ。(最近はとんと買いに出かけていないが)
金沢という大きな市域を腑分けすると、山側は戦後に編入された内川村、犀川村、湯涌谷村が外郭を固めている。その何れも高い山はないものの、深い谷の向こうに急峻な峰がそびえている。ボクの自室からいつも、そんな南側の峰を眺め、その基部を流れる川の様子に気持ちが引っ張られる、感覚が楽しい。そんな金沢の山を描いた長崎幸雄さんの遺著を眺めていると、山や谷への思いが募る。いや、その募る感覚を楽しんでいる。最近は、掌中にその感覚の手触り、のようなものを求め、ただただ地図を眺めている。そんなことが楽しい。
夏が突然終わり、秋がはじまった。そんな日曜日は沢の中で、それも源流部の清澄な水の中で過ごしたかった。だから、ゆっくりと三輪山をとり囲む内川の源流部を遡行してみる。竿を持って。
夏と秋が交差するような不思議な一日だった。静かなブナの森のなかが、急に賑やかになる。一陣の風が森を通りぬけ、木々が揺れ、葉が舞い散り、川面を流れる。時間が止まったような瞬間、を何度も味わい、夏の終わりを確信した。
残念なのは釣果がさっぱりだったこと。20cmから25cmのイワナ3本。清澄な水には淡い色のイワナが棲んでいる、ようだ。
同じようなゆったりとした気持ちで倉谷川の源流部や残雪期の高三郎山に行ってみたいのだが、なかなか実力が伴わない。積雪期・残雪期の三輪山や高三郎山の山行記録をネットでみかけ、その魅力にすこし参ったりしているのだ。