例年のように仕事で東京にでかけた。昨年はもう少し遅くて3月第2週。そして、あの刻には消えてしまった信号機や街の通奏低音に息を吞んだ瞬間、揺れる路面のうえで悄然としていた。あの日も寒かった、ような記憶だけが残っている。
そんなことを想いながら、あの坂のうえを見上げると数多の御魂がくぐり抜けた鳥居が見えた。その社のうえには淡く蒼い天蓋が覆っていた。多くは今のボクよりも遙かに若い彼らは、日溜まりのなかで安らいでいるのだろうか。
金澤は雪が小降りだった。東京は高層雲が消えたり、広がったり、を繰り返していた。とても寒いのだけど、少し黄色がかったような・白けたような空に気がつくと、春のなかに歩いていることに気がついた。寒い春の日。
それにしても久しぶりの丸の内をゆっくり歩くのは悪くない。日本が縮退していくなかで、縮こまった殻の中は爛熟したような繁栄にあって、衰退の兆しも見せない。食事をするテーブルに射し込む光の明るさは往時よりも輝かしい。
だから殻の外に出たときの寂寥感は強く、そんな街を歩くと漂う見捨てられた感じが子供の頃に感じた黄昏の頃、人さらいが歩いていると云われた街を歩いているような気分になる。
そんなことをぼんやり考えながら、街から街へ渡り歩いた一日だった。