K’s Jazz Days

K’s Jazz Days

ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

Roger Muraro: Ravel/L'oeuvres pour Piano (2003) 美音に揺さぶられる

ラヴェルのピアノ曲の素晴らしさをMちゃんに教えて貰ったのは10年前だったか。20世紀のはじまりの音の素晴らしさ。ドビュッシー、スクリャービン、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、そのような音と静かに交わる時間は愛おしい。

それにしても、このムラーロのアルバムの音の甘さは格別だ。曲の構造そのものが甘味と化し、聴き手を持って行こうとする。とんでもないなあ。

https://music.amazon.co.jp/albums/B00BH9NRBM?ref=dm_sh_4da4-d0b4-9d55-e549-1dfb2

[2015-03-22]日曜の朝、クラシックを聴きながらジャズを考える

 今朝はクラシックを聴いている。ラヴェルピアノ曲全曲。ラヴェルの曲集は幾つか持っているのだけど、全曲集ってあったっけ、という感覚。快感指数が極めて高く、複雑な構造の曲をスムースに弾く奏者の技巧にヤラれてしまう。このあたりの力、はジャズの比ではないと思う。勿論、音楽としての狙い所、が違うのだけど。

 ジャズを聴く中で、即興に対しての「ある種の信仰」のようなものが育ったのだけど、このような演奏を聴くと、即興であることで得られる快感って何だろう、と考え込んでしまう。

 前職を辞めて、田舎に来てから、随分音楽に浸る時間が長くなった。と同時に、ジャズだけでなく、ソウルやクラシック、いろいろ聴くようになった。随分とジャズを相対化して聴いているように思う。この2年くらい、「現在のジャズ」の見取り、のようなものが分からなくて、イライラしていたのだけど、「見取り」の幻想、のようなことが分かってきた。ジャズの固定観念、スタイルの変遷、streamという表現、が幻想だったのだなあ、と思う。広く拡散し続けるジャズのスタイルのなかで、streamは語り得なくて、あるのは音だけ、なんだと思う。そして、その周縁には「柵」とか「線」はなくて、隣接する沃野との作物が混じり合っている。ただ、それだけのこと。

 streamに対する幻想がマイルスの死とともに緩慢に消失していって、21世紀も15年経ってから、そのことに気がついたように思うのである。そして、そのような眼でみると、streamの外郭に様々な、多様な音が広がっていて、それを左様に捉えていなかっただけ、のような気がする。ジョニ・ミッチェルのアルバムにショーターが入ったくらいで、ガタガタ論評していた雑誌があった時代が、懐かしい。