モダン・ジャズを聴く、ということは音溝に残された冥界の人達の記録を辿る、ということになったようだ。
(多分)、時代の音楽としてのモダン・ジャズは1960年代後半にゆっくり消えていき、川のような流れ(ストリーム)ではなく、海のような広がりのなかで拡散し続けている、ということがようやく実感できているように思える。だからボクが聴きはじめた1970年代末は拡散の動きそのものが力強く、あたかもストリームのように見えていたように思える。その頃の力強い奏者達も次々鬼籍に入り、モダン・ジャズの時代の余韻が雲散霧消するような時代を、ボク達は生きている。
だから若い頃に読んだ余分な「豆知識的」なジャズのストリーム史観に従い、情報をファイリングするようなシステムが脳内に出来ているので(酒だって、ある種の知識に従ってファイリングされているように)、今時のジャズをallocateする術を失っているように思えている。
コールマンもボクのなかでは、meta-streamの時代のなかで、力強い動きを維持していた奏者だったように思う。プライム・タイムの周辺から生まれる音の変態さ、を随分愉しんだような気がする。ただ、よみうりランドで彼を聴いたときの空虚な印象って、何だったのだろうか? 多分、それがstream的なものでは決してなかったことを、感じ、脳内でのallocationを失ったから、じゃなかろうか。
先日逝去したコールマンはフリー・ジャズの開祖的な説明がなされる。そうかどうかは、同時代を経験していないので、実感はない。むしろ「奇妙な音」と「美しい音」の境界線を狙った、音と音が紡ぐ旋律の新たな調性を追い求めた奏者、として感じている。それも本人の演奏よりむしろ、キース・ジャレットの1970年代の演奏(Impulse!盤)やパット・メセニーに投影されるコールマンの影、から強く感じた。ヘイデン、がその「仲介人」であることは多言を要しないだろう。1980年代以降のキースのトリオは、その影から脱却するために現代音楽的な音の美しさの追求に移った、と思っている。だから、美しくも、単調なような気がして、長く聴いていなかった。キースがトリオでヘイデンと全く共演しなかった(モチアンとしても)、のも、そんな理由じゃないかな。
そんなコールマンの味が最大限楽しめるのが、このアルバムじゃないかな、と思う。沢山は聴いていないので、ベストかどうかは分からない。デュオという形で「仲介人」であるヘイデンと存分に奇妙で、よく聴くと美しさを秘めた、音を流し続けている。40分に満たない演奏はあっという間に終わる。
基本的には他の演奏でもオーネットの音には大差ないと思う。だけど、プライム・タイムでのギターやドラムが叩き出すリズム、Golden circleのようなmain stream的な熱狂、なんかがないので、オーネットそのものに集中できる盤のように思う。
あの世の方々の音ばかり聴いていてもねえ、とは思うのだけど。
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Ornette Coleman and Charlie Haden: Soapsuds(1977, Artists House)
A1. Mary Hartman, Mary Hartman 7:44
A2. Human Being 7:46
A3. Soap Suds 5:12
B1. Sex Spy 9:55
B2. Some Day 7:34
Recorded at The Hit Factory
Mixed at The Village Recorder
Ornette Coleman(ts,tp), Charlie Haden(b)
Mix, Master: Ed Michel
Producer, Master: John Snyder
Record: Kevin Herron
Recorded at The Hit Factory, New York City, January 30, 1977.
Mixed at Village Recorders, Los Angeles, California,
March 19 and 20 1977.