(ECM1085) Keith Jarrett: The Survivors' Suite (1976)
A. The Survivors' Suite (Beginning) (Keith Jarrett) 27:34
B. The Survivors' Suite (Conclusion) (Keith Jarrett) 21:32
Keith Jarrett(p, ss, recoder, celesta, perc), Dewey Redman(ts, perc), Charlie Haden(b), Paul Motian(ds, perc)
Layout: B. Wojirsch
Cover Photo: Keith Jarrett
Engineer :Martin Wieland
Producer: Manfred Eicher
Recorded April 1976 at Tonstudio Bauer, Ludwigsburg.
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抑制的な演奏が実に美しい。いや、それはキースだけでなく、ヘイデンもモチアンもレッドマンも。譜面に書かれている(に違いない)旋律を辿るだけで、咆吼しない。その強い抑制が、溜息が出るような美しさを誘っている。キワモノすれすれになりがちな、キースの多楽器演奏も自然に溶けていて、ソプラノも実に良い。竹フルート(キース?)も良い効果をあげている。最初の数分間、そのようなピアノレスの状態から、試し弾きのようなピアノ。その抑えられたタッチが、聴こえない余韻のようなものを心象のなかに描き出す。
キースの所謂American Quartetは良く書けば奔放、あるいは無統制すぎることがあり、音のフレームのようなものが崩れることが多く、様々な局面で顔を出す美しさやジャズ的な快感を台無しにすることがある、いや、台無しになる。これは、レッドマン抜きのトリオでも。この時期に取り組んでいた(のじゃないかな)コールマン的な味の消化(あるいは昇華)に苦闘していた、ようにも思える。
このアルバムでは、そのような様々な音の局面をかなりキッチリと制御し、一枚のアルバムにキッチリ、収めている。そのうえで、本来彼らがやりたかったであろう音の奔放な側面が放つ光と陰翳のようなものが細部まで記録されている、ように感じられる。
ボクはそこにキースとアイヒャーの邂逅が生んだ、奇跡のような一枚じゃないかと思う。そして、この時期から少し後、ジャズ畑でキースはピーコック、デジョネットとしか共演していない(例外的にヘイデンも少し)。確かに、あのトリオの意義は1980年代には「伝統回帰」への強烈なアンチ・テーゼであったと思うが、あれから30年以上経た今、質の高いジャズを演奏するということと、ジャズの世界で生きていること、は別なのだと思う。今、ジャズの世界に存在しているようで存在していないキース・ジャレット。その彼が、ヘイデン、モチアン、レッドマンという無二の奏者達と遺した宝石のようなアルバムだと思えてならない。同時に、この後がない、存在したことがない音への強烈な喪失感、にうなだれている、のである。(このあたりが、大きな足跡を若い奏者達と残したモチアンとの違い、だと思う。)
久しぶりにECM聴きに復帰したけど、やはりECM、されどECMで、想い多し、なのだ。
追記1:このレコードが「西独盤ECM」購入の1枚目であることを思い出した。1979年のこと。
追記2:このレコードが思い出深いのは、当時、大学の英語の授業でアーサー・ミラーの写真エッセイを読んでいたのだけど、New Englandの消え行くような光景を書いたもの。ノスタルジイ満点。その写真と、このジャケットが見事に被っている。