K’s Jazz Days

K’s Jazz Days

ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

暗い時候・妖しい坂

 少し前に書いた記事では、道迷い、のような形で感情の基部に手を差し込むような、そんな不安感を掻き立てるような狐狸、のようなものについて書いた。決して危ないような感覚はなくて、むしろ悪戯されているような感覚なのだけど、そのときの気持ちの根が切られたような浮遊感、酔いもあり、がなんとも言い難い金沢体験のような気がする。狐狸のような女性達とそんな話を酒場でしていたことが、随分と昔のように感じる。

 そのような感覚って、路地だけではない。むしろ生来的にアジールと化しやすい川に沿った場所、と河岸段丘のうえとを繋ぐ坂、がある種の結界であり、坂の上の「ヒトの世界」と川沿いの「ヒトだけでない世界」が醸し出す、それぞれ密度が異なる空気が接触する界面、に何かが起こるような感覚がある。勿論川沿いだけでない。山のなか、と山の下、の間にも似たような感覚があって、「ヒトの世界」と「ヒトだけでない世界」の界面を感じることがある。

 前にも書いたが、全く「あの手」のことに感度がないボクにでも、感じることができる街に住んでいる、ことが可笑しい。

 あれは今のところに住む前、寺町台地のうえに住んでいた頃のこと。金沢に住みはじめた最初の頃、面白がって片町界隈で随分と呑んだ。今まで、神奈川や兵庫の田舎町に住んでいたので、本格的な繁華街の近くに住むのははじめてだったから。呑んだ後は、犀川沿いに、犀川大橋、桜橋と遡上し、下菊橋のあたりで寺町台地のうえに出る。そのときにに使う坂が長良坂。川からの風が抜けていくので、別名、吹上坂。大きな料亭の脇をあがる急坂で、坂の途中に地蔵様がおられ、線香の匂いが絶えない。
 丁度、今ぐらいの時候の頃、夜半過ぎに歩いていた。昨夜と同じ月夜。金沢らしく、雲が流れる夜だった。少し寒い犀川沿いから、長良坂をあがる。坂のしたにある集合住宅には、いつものように灯がともってなく、いつもと同じように不思議だなあ、と思う。地蔵様のあたりまで上がると、背後でバタバタという音がする。かなり大きな音。何だろう、と振り返ると強い雨が降っている。月夜の晩。觔斗雲のような小さな雲が、地蔵様の前の桜の木よりも低いところに浮かび、そこからシャワーのように雨が落ちている。驚いて眺めていると、雲に追いつかれ、ボクを濡らしながら頭上を過ぎていく。そのまま寺町台地の上に抜けていった。そのまま、寺町台地に上がると、静かな月夜。「何かに」悪戯された、と思った。案外と暖かな感覚、がむしろ不思議だった。かつて路面電車が走っていたという広い通りは、月に明るく照らされていた。軌道がないのにもかかわらず、通りには錆が浮いた軌道が照らされたような冷たい心象風景だけが残っている台地のうえ。

 それは犀川と寺町台地のうえ、の間で起こったことなのだけど、卯辰山と東山の間でもやはり、「ヒトの世界」と「ヒトだけでない世界」の界面を感じたことがある。金沢の街中を歩き回っていた頃、夕暮れ時に卯辰山に上がって、暗くなってから工房のあたりから山を下った。工房の少し下に宇多須神社の奥社がある。そこで手をあわせ、暗闇を下る。急坂を下っていくと、東山の宇多須神社の裏手に出る。そこから本殿の前に出て、やはり手を合わせる。そして正面の鳥居をくぐったとき、なにか淡い弾力がある膜のようなものを破った、感覚。耳元で何かが弾けた感覚があって、東山の街の音・静かな物音、のようなものが聞こえた。奥社から本殿まで無音のなかに居た、ことを知った。ああ結界、と左様なものなのだ、と気がついた。

 だから東山界隈であるとか、犀川浅野川のあたり、で酔うことに何とはなく惹かれる。そんなこともあって、昨夜は、浅野川を間近に見るバーで遅くまで友人達と呑んだ。やはり月夜。明るく浅野川を照らしていた。結局、一人一本くらいワイン開けたかなあ。そんな泥酔の夜には、狐狸も取り憑けないほど知覚はなくなっているものである。残念だけど。次は歩いて行こう。自室からそのバーまでは、小立野台地を抜けていくので、妖しい坂とか辻が沢山あるからね。