K’s Jazz Days

K’s Jazz Days

ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

坪口昌恭/Tokyo Zawinul Bach: Live In Tokyo (2001) 気がつくと半年聴いているんだ

坪口 昌恭/Tokyo Zawinul Bach: Live In Tokyo (2001, Uchu Records)
1. Half Moon(Masayasu Tzboguchi) 10:37
2. Bitter Smile(Masayasu Tzboguchi)6:25
3. Rocket X(Masayasu Tzboguchi)10:58
4. Neuron (Masayasu Tzboguchi)11:20
5. 12 Special Poison(Masayasu Tzboguchi) 6:10
6. Circle In The Round (Miles Davis)15:20
坪口 昌恭(Key, Computer), 菊地成孔(ss, ts, Turntables [Cdj]), 五十嵐一生(tp, synth)
Producer: Tokyo Zawinul Bach

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30代くらいまでは乱読で本を買い散らしていた。眼の劣化(近視の進行、乱視、遠視)で、今は音の「乱聴?」で音源を買い散らしている。好みは、流れるように変わっている。最近は坪口昌恭を良く聴いている。面白い。それがつい最近のことだと思っていたが、もう半年聴いているんだ、と気がついた。

ストリーミングで聴いていたアルバムの音源が欲しかったが、東京ザヴィヌルバッハのLive in Tokyoは案外難しい、と思っていたら、OTOTOYで発見:

CDというマテリアルには全く物的魅力を感じていないので、これでOK。嬉しいなあ。21世紀に生き延びたマイルスの遺伝子という感じで、飽きが来ないなあ。ウワモノに電化マイルスやWRを載せてた21世紀の律動を聴いている、という感覚に惹かれているのだろうな。今のビートで聴く懐メロ、って感じで。

 

[2020-06-29] 21世紀に聴くマイルスの音楽の影、のようなもの

Radio-Acoustiqueがあんまり面白かったので、続き: 

個人的な背景から書く。1980年代後半から憑きものが落ちたようにアヴァンギャルド系は聴かなくなり(最近、再び憑いたが)、1990年頃から2008年頃は仕事に没頭し、限られた「ジャズ」しか聴いていないし、新しい人はあまり聴かなかった。だから1950年代中頃以前に生まれた奏者が中心だったような気がする。だから1960年代以降に生まれた奏者はあまり聴けていない。

この2つの条件に照らすと、坪口 昌恭、菊地成孔は完全にゾーンから外れていたし、五十嵐一生も聴けていない。

また、その後も五十嵐一生はともかく、坪口 昌恭、菊地成孔は聴けていなくて、また活発な言説も全く読んでいない。何となく良く分からないクラブ系云々ということで、勝手に壁があったんpだろう。

要は音だけ聴いた印象で、それ以外のコンテクストの流入はないということ。2020年にはじめて聴いた印象、ということ。

 

1970年代のマイルス・デイヴィスの音楽の偉大さについては語り尽くされていると思うので、ここでは語らない。その喪失感たるや、である。1980年代のマイルスは似て非なる存在。1970年代のマイルスの到達点をソフィスケイトして提示した菊地雅章も、結果的にはそこで力尽き、アコウスティックの世界に旋回し、復活するまで10年近く要している。途中のトライアルは痛々しくすらある。そんな喪失感。

それは1990年代、マイルスの没後に漸次高まっていったような感覚はある。だから2000年にヘンリー・カイザーのYo Milesがあり、20世紀最後にTokyo Zawinul Bachがったのだろう。(きっと、これらも語り尽くされているのだろうけど)

そんな感覚で聴いていると、まず唯々マイルスから菊地までの取り組みへのリスペクト、そして寸分でも進化させようとする意思を感じさせる。下地の律動の複雑さや、テクノロジーの援用が語る情報よりも、トランペットが奏でるマイルスの影や、キーボードが孕むザヴィヌルの影が、思いの外そういった印象を強く押し出している。同時期のラズウェルのマイルス・リミックとの音響的類似性には驚く。

(ラズウェルのRated-xリミックスが好きなのだけど、それと同じ感覚で聴いている。

)

企みが巧くいったか、どうか、ではない。あの時期のマイルスや菊地雅章の音楽への様々な角度からのリスペクトが、このアルバム自体の耐久性を著しく高め、ほぼ20年後の今も違和感なく聴くことできる大きな要因。

あの喪失感は決して埋まらないのだけど、しかし、このような音場があること、が嬉しい。早く聴けばよかった。