K’s Jazz Days

K’s Jazz Days

ジャズを中心とした音楽と本の備忘録

Toto Bona Lokua(2003) 決して熱狂のない微温で漂う現代のクレオールの音

Lokua Kanza, Richard Bona, Gerald Toto:Toto Bona Lokua(2003)
   1. Ghana Blues (R.Bona)
   2. Kwalelo (R.Bona)
   3. Lamuka (L.Kanza)
   4. L'endormie (G. Toto)
   5. Flutes (G.Toto)
   6. The front (R. Bona)
   7. Na yé (L.Kanza)
   8. Help me (G.Toto)
   9. Stésuff (L.Kanza)
  10. Where I came from (G. Toto)
  11. Seven beats (R.Bona)
  12. Lisanga (L.Kanza)
Lokua Kanza(vo,g,p,etc.), Richard Bona(vo,g,b,p,etc.), Gerald Toto(vo,g, etc)

クレオールという言葉がある。植民地生まれの、という意味。カリブ海の植民地で生まれた人々とか。言葉の世界で云えば、混沌としたバザールのなかで符丁のように使われる摩耗した言葉:ピジン語が民族語・地域語として成り立った言語:クレオール語、のように使われる。

ボクらも無縁でなくて、大野晋の日本語クレオールタミル語説なんかもある。天武期の日本国家成立以前,倭の時代の海洋交易のなかで、タミル語やら漢語やらがクレオールたる倭の地で言語化したものが日本語の起源だという説。大野晋タミル語はともかくも、岡田英弘の言説もそんなクレオール的な日本語起源説でなんとなくフィット感はある(こんなことを書きながら田中克彦の「クレオール語と日本語」をクリックしてしまった....)。

ボクたちが生きるこの世界、国際資本という帝国による「世界の植民地化」のなかにあって、英語もピジン化し、あらたなクレオール的な英語、商売の符丁としての英語のなかで生きている。小説ひとつ読めないボクが、無錫生まれの中国人や、チュニジア生まれのスンニ派イスラム教徒や、カシミールからやって来たシーク教徒なんかと、ダラスで半導体チップの議論をやっていたのだから。そんな現代のクレオール世界のボクたち。悔しいけど、近所のバーのオヤジに商社マンの英語だね、といわれても仕方がないバザール英語、クレオールの申し子な訳だ。

余計なことを沢山書いてしまったのだけど、この音楽「Toto Bona Lokua」はまさに現代のクレオール世界、一見国際資本と関係ないようで、音楽資本がオルグしたという意味で同じような植民地音楽。ザイールのカンザ、マルティニーク(仏領カリブ海)のトト、そしてカメルーンのボナが織りなす熱帯、というには微温の熱狂なき音の世界。音楽ビジネスの徒花かもしれないのだけど、とてもとても穏やかな風が音のなかから吹いてくる。

ボクはリチャード・ボナジャズ・ベース奏者として知ったのだけど、彼のアルバムを聴いて、とても正統なアフリカ音楽の奏者としてとらえなおしていた。西洋大衆文化がつくった電化楽器をアフリカ世界で再構築している、という意味で。ジャズ的には超絶技巧ベーシストなのだけど、そんなコトを感じさせない。グローバル社会という現代の帝国のなかで、彼らの声の在り方がとても普遍的な世界音楽であることに驚いてしまうのだ。

妄言のようなメモを書いているように見えるのだろうが、曲名をみてごらん。Help meとか、Where I came fromとかってタイトルのなかに、現代のクレオール語り部たる彼ら、そして同じクレオール世界に嵌め込まれたボクら、の現在が見えるでしょ。

決して熱狂のない微温で漂う現代のクレオールの音を聴きながら、春近き雪山をみながら過ごす朝って、なんだか凄いことになっている普通の現代社会。それにしても、クレオール世界の心地よさに浸りながら、その反語たる宗主国概念って何だろうなと、ふと思ったりもするのである。

2008年のツアー

Help me

 

Where I came from

 

Lisanga