日本語の話者の祖地が旧満洲の西遼河河畔であるとのNature論文が話題を呼んだのは少し前のことだった。
その学説以上に、中国から朝鮮半島経由、といったあたりに引っかかった御仁が多かったようで、近代国家成立とともに生じたナショナリズムの弊を体現する有様に笑ってしまった。個人的には、長江より南の人々(広東、ベトナム、タイ北部)との親和性(背格好、表情)を感じていたので、稲作議論も相まり、この学説に違和感を感じたのだけど。
かつて岡田英弘が、日本国の成立(文武天皇期)の前、倭国が大陸からの移民のコロニーから発生したこと、日本語もインドネシア語のような人工語であったことを、中国の史書をもとに看破している。
日本語の成り立ちがクレオール的であると書いた田中克彦の著書もすっと腑に落ちる話で、フランス語がカリブ海のクレオール語の母であるならば、アジアのクレオールたる日本語の母は古代漢語である。
呉音を中心とする古代漢語の話者が入植したコロニーと、その周辺の縄文人との間の意思疎通でクレオール化した、そのような理解もごく自然である。その場合、孤立語という分類の中国語と、膠着語という分類の日本語の乖離が大いなる問題であるが、クレオールあるいはコロニー的な論理はそのあたりの矛盾を崩す論ではないか。
また石川九揚は、日本語の祖語から中国語を外す不自然さ、また中国語自体が書き言葉で縮退させられたことを論じ、その文法云々が末節枝葉であることを解く。
このあたりまでの理解をまとめると、原日本人たる縄文人と渡来人の2重構造から現日本人は生まれていて、やまと言葉と呉音を中心とする古代漢語から日本語がクレオール的に成立した、そんな感じかな。
と、思ってきた。
前置きが長いが、そんな理解を崩す本が出た。かなり衝撃的であるが、スケールの大きさが魅力。背景に、詩経の音韻分析から古代漢語の発音が体系的に整理されたことにあるという。表意文字であるが故に、遅れていたらしい。
その結果、やまと言葉も古代漢語で語源が特定できるという。また記紀の神々の名前も。つまり縄文語なるものはなかった(渡来人の言葉で埋め尽くされ、雲散霧消)。それが本書の衝撃的内容。
もう少し詳しく知りたくなり、著者の前著を入手。これが更に壮大であった。
日本語の基層の言語として、古代漢語の他に、縄文語(の直系のアイヌ語)、南島語、タミル語、ビルマ・チベット語の影響が唱えられている。この本の説が凄いのは、これの祖語である原ユーラシア語を介し、これらの言語と古代漢語の発音が類似していることを示している点。つまりタミル語と日本語、古代漢語の音韻対応がある、すなわち原ユーラシア語の反映である、を示していること。
南島語族は、近年のゲノム解析から中国南部から台湾経由で拡散していったことが明らかにされているので、古代漢語との強い親和性はすっと頷ける。さらに原ユーラシア語を介し、アジアの諸言語と繋がっていると。ホモサピエンスの出アフリカから農耕期までの狩猟時代の音韻変化が極めて緩やかであった、という想定。だから欧印祖語と古代漢語との音韻対応まで示している。驚き。
原ユーラシア語から緩く分岐した縄文語があり、その上に渡来民の同系語が被さった、だから比較的穏やかに呑み込まれていったのではなかった、と。
ホモサピエンスの出アフリカからの壮大な議論だという、忘れがちな視点を与えてくれる著作。ただし比較言語学の本なので、長大な単語比較がややしんどい。