朝ご飯を食べたあと、何となく風の吹くまま、気の赴くままに路地から路地を歩いたりして、時間を過ごしている。はじめてこの地に来たときには、時間が信じられないくらい緩やかに過ぎていて、その不連続な感覚に衝撃を受けてしまった。ちょっと大袈裟だけど。そのあとに人生の転機もあって、なんとなく人生観(これまた大袈裟だけど)の変遷のヒトコマになっていることも確か。時間というものが、極めて相対的な存在であることも、知識ではなくて、実体としても知ったし。
そんなわけでバンコクに来ると時間が止まったような緩さが良かったのだけど、金沢に引っ越してからあまり感じなくなった。金沢もかなり緩いのではないか、と改めて思っている。仕事が詰まってくると、まわりの時間の緩さとのコントラストで目眩しそうなこの頃なのだ。バンコクへ行かなくたって、緩いのだ。だから最近はこの地に出かける機運が萎みつつあるのも確かなのだけど、パクチの甘い匂いと随分増えた仕事での友人に引っ張られて来ているのだ。
それはさておき、12月のバンコクは2度目なのだけど前回(4年前)よりもクリスマス・ツリーが目立つのは何故だろうか?あちこちに置いてある。そのツリーには殆ど誰も触れたこともないであろう雪までしつらえてある。最近開業したアソークの交差点の大きなモールにも大きなツリーが。若い男女が楽しそうに記念撮影を行っていた。可笑しいのは、ツリーには幾つかボンボリがぶら下がっていて、インド系であろう神様のマスコットがぶら下がっていた。それに日本の鳥居も。
このあたりの屈託のなさが、日本もタイも同じだなあと、改めて親近感を感じてしまった。街中に溢れるイタリアンや和食の店なんかを見ていても、雑食性の逞しさを共有している感じだし。
そこでつらつら考えた。日本人にとっての宗教は、キリスト教やイスラム教のようなある意味「人工的」なものではない。多分にアニミズムの要素が大きく、万物に霊性を感じるようなものだと思う。だから絶対的な存在がある訳でもなく、木々や石、川や山、風や雨にも擬人的な霊性を感じ、日々生きている。それが自然に対する距離感の近さであり、畏敬の念であろう。だから、仏教が入ってきても矛盾せずその世界観に溶け込み、密教と共にインドの神々が入ってきても、石や木々と同じような霊性を再定義され、 日本の光景に溶け込んでいる。だからクリスマスの光景も、インドからやってきた凶暴なガネーシャ(象の神様)が、のんびり聖天様になっていることと、同じ同化の光景だと理解している。だから、宗教的な蒙昧さだとか、曖昧さ、だとか思う必要はない。神性を主張するものが排除されず、居場所が与えられるのだ。他の霊性を否定しない限り。
このタイの人々も似たような心性を持っているのではないか。雲南のあたりから南下してきたタイ族は後年までアニミズムであったことは間違いなく、その名残でピーという地霊を信じている。そして仏教とともに入ってきたインドの神々も信じている。街の辻辻にはお堂があって、皆、手を合わせている。きっとタイのキリストも、タイのガネーシャの隣に席を貰っているのではないか?
そんなことを考えながら、新しい店をみつけようとスクムヴィットを少し彷徨ったけど、結局、いつものタイ飯屋キャベジ&コンドームへ。ドキッとする名前だけど、タイのHIV撲滅NGOが経営するレストラン。アレを使いましょう、ということ。だからお勘定が終わって出るときには、アレを渡されるという徹底ぶり。まあ我々の口に合う、穏やかなタイ飯を美味しく頂けるので、良く行くのだけど(京都にもあるみたいです)。その店内にも大きなクリスマス・ツリーが。
アレの店なので、アレかなって思ったら、アレでした。タイのHIVは、一頃猛威をふるったらしいので、こんな啓蒙活動は大切なのでしょうね。未だにアフリカで猛威をふるっている現状を鑑みると。
さて料理だけど、少人数で行ったのであまり沢山は食べることはできなくて、パイナップルと海老のカレーが美味しかったかなあ、という夕食だった。あとは、シンハーを沢山吞んで。