1970年代のECMに興味が向かっている。最近のECMって、何だか画一化しているように思えてならない。音の温度感、感情に対して刺し込む角度、音を通じて語るための語法、そんなものが平準化してきているように感じる。決して1枚1枚のアルバムの質が低下している訳ではない。ただ、かつては森羅万象を呑み込む密林が如く、全体像の把握すら難しかった。それが1970年代から1980年過ぎまでのECM。ある意味で混沌としている魅力、があった。
そんな混沌さ、が音の裾野の広さ、何よりも音楽が自由であっていい、という天が抜けたような広がる心象風景が楽しかった。それでいて、そんな自由さを表現するための規範、のようなものが醸し出される、それがプロデューサであるアイヒャーそのものであったように感じる。
今はNew seriesなど、音を載せるプラットフォームは多様化しているのだけど、見かけ上、多様化している音が映し出す風景がどれも同じように感じてしまうのは、何故だろう。決して否定的に思っているのではないのだけど。
だから1970年代のECMを聴くことが楽しい。米国中心に隆盛したフュージョンやフリー・ジャズを解体して、奏者が持つ固有の風土やコンテクストに再構築される様が素晴らしい。そのなかでも、ブラジルの奏者、ジスモンチやヴァスコンセロスが創り出す音の凄み、は例えようがない。彼らがブラジルでやってきた土着性の強い、そして何もかも過剰で、熱い音楽。それをECMというアイヒャーのプラットフォームのうえで再構築し、比較的低い温度に落とし込まれた熱帯の音楽。形あるいは定型といったものを見出せない、逸脱性の高い音楽。それでいて彼らを生んだ豊穣な熱帯の気、を濃厚に感じさせる。狂気とも凶器とも云ってもよい。
そんな音楽に浸っている間、ボクの月並みな感情は何処か遠くへ運ばれ、虚脱した抜け殻のような自分を遠くから観察するような不思議な感覚に襲われる。そんな魔力の強い音楽を構成するレーベルの魅力、それが1970年代の魅力ではなかったか。
レコード針がレーベルの外周に接触し雑音をあげるころ、我に返る。そして、そんな当たり前のことにハタと気がついて、なんだか楽しくなっている時間が楽しい。 奔流のような音に、いつまでも身を任せていたい。
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Egberto Gismonti:Dança Das Cabeças (1977, ECM)
A1. Quarto Mundo No. 1
A2. Dança Das Cabecas
A3. Águas Luminosas
A4. Celebração de Núpcias
A5. Porta Encantada
A6. Quarto Mundo No. 2
B1. Tango
B2. Bambuzal
B3. Fé Cega Faca Amolada
B4. Dança Solitária
Egberto Gismonti (8-string guitar, piano, wood flutes, voice), Naná Vasconcelos (percussion, berimbau, corpo, voice)